■「環境は人を作り、人は環境を作る、斯く言わば弁証法的に統一された事実に、世の所謂宿命の真の意味があるとすれば、血球と共に循る一真実とはその人の宿命の異名である。或る人の真の性格といい、芸術家の独創性といい、又異なったものを指すのではないのである。この人間存在の厳然たる真実は、あらゆる最上芸術家は身を以って制作するという単純な強力な一理由によって、彼の作品に移入され、彼の作品の性格を拵えている。」

■「時代意識は自意識より大きすぎもしなければ小さすぎもしないとは明瞭な事である。」


■凡そあらゆる観念学は人間の意識に決してその基礎を置くものではない。マルクスが言った様に、「意識とは意識された存在以外の何物でもあり得ない」のである。或る人の観念学は常にその人の全存在にかかっている。


■卓れた芸術は、常に或る人のまなざしが心を貫くがごとき現実性を持っているものだ。人間を現実への情熱に導かないあらゆる表象の建築は便覧に過ぎない。人は便覧をもって右に曲がれば街へ出ると教えることは出来る。然し、坐った人間を立たせる事は出来ない。人は便覧によって動きはしない、事件によって動かされるのだ。強力な観念学は事件である。強力な芸術も亦事件である。

■何等かの意味で宗教を持たぬ人間がない様に、芸術家で目的意識を持たぬものはないのである。目的がなければ生活の展開を規定するものがない。然し、目的を目指して進んでも目的は生活の把握であるから、目的は生活に帰ってくる。芸術家にとって目的意識とは、彼の創造の理論に外ならない。創造の理論とは、彼の宿命の理論以外の何物でもない。そして、芸術家等が各自各様の宿命の理論に忠実である事を如何ともしがたいのである。