小林秀雄の『様々なる意匠』につい・・・。

小林秀雄の『様々なる意匠』本文


〓〓〓〓以下引用(本文)〓〓〓〓

ー1ー
《吾々にとって幸福な事か不幸な事か知らないが、世に一つとして簡単に片付く問題はない。》

《 遠い昔、人間が意識と共に与えられた言葉という思索の唯一の武器は、依然として昔ながらの魔術を止めない。 》

《 劣悪を指嗾しない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない。しかも、もし言葉がその人心眩惑の魔術を捨てたら恐らく影に過ぎまい。》

《私は、ここで問題を提出したり解決したりしようとは思わぬ。私はただ世の騒然たる文芸批評家等が、騒然と行動する必要のために見ぬ振りをした種々な事実を拾い上げたいと思う。 私はただ、彼等が何故にあらゆる意匠を凝らして登場しなければならぬかを 、少々不審に思うばかりである。》

《私には常に舞台より楽屋の方が面白い。 》

《 このような私にも、やっぱり戦略は必要だとするなら、「搦手から」、これが私には最も人生論的法則に適った戦略に見えるのだ。》


ー2ー


《文学の世界に詩人が棲み、小説家が棲んでいるように、文芸批評家というものも棲んでいる。詩人にとっては詩を創る事が希いであり 、小説家にとっては小説を創る事が希いである。では、文芸批評家にとっては文芸批評を書く事が希いであるのか? 恐らくこの事実は多くの逆説を孕んでいる。》


《「自分の嗜好に従って人を評するのは容易な事だ。」と人は言う。しかし、尺度に従って人を評する事も等しく苦もない業である。常に生き生きとした嗜好を有し、常に溌剌たる尺度を持つという事だけが容易ではないのである。 》

(小林秀雄『様々なる意匠 』より)

〓〓〓〓引用終了〓〓〓〓

小林秀雄の『様々なる意匠』について話そう。(1)

コロナ禍の中で 、いよいよ大学の講義も始まりそうです。ただし、今年の講義は、教師と学生が教室で顔を突き合わせるという対面式講義ではなく、Googleのアプリclassroomやmeetを使った、前代未聞の「ONLINE講義」という形で、始まりそうです。通信教育や予備校、あるいは会社の会議などでは、既に、やっていたのかもしれませんが、Googleのclassroomやmeetというのは、私も、初めてですので、良くわかりませんが、ネットの世界は、それなりに熟知しているつもりですので、一先ず、大学側の案内通りにやってみようと思います。以下は、そのための「講義ノート」の一部です。私は、普段は、「講義ノート」など作らず、頭の中を整理しただけで、ぶっつけ本番で、やっていましたが、今回は、そういうわけにはいかないようです。やはり「講義ノート」のようなものが必要のようです。私は、普段から、学生用の講義と、一般向け、あるいは一部の専門家向け、というような区別を、一切、していません。だから、ここで、作製中の「講義ノート」を公開します。私は、毎年 、前期は、「小林秀雄」について講義していますが、その中でも、小林秀雄のデビュー作『様々なる意匠』について、テキストにそって講義しています。学生たちが、理解出来ようと出来まいと、お構いなしで、話を進めていますが、後でレポートを見てみると、大部分の学生は、理解出来ているようです。むろん、理解出来ていることと、それを自分たちの文学活動で、具体的に実践できるかどうかという問題は別ですが・・・。さて、小林秀雄の『様々なる意匠』は、文芸評論の分野で重要なテキストであるのみならず、思想、哲学 、社会科学、自然科学・・・を通じても重要なテキストです。既に御承知のように、『様々なる意匠』の冒頭に、アンドレ・ジッドの言葉が引用されています。「・・・」

小林秀雄の『様々なる意匠』について話そう。(2)

小林秀雄は、デビュー作『様々なる意匠』の冒頭に 、エピグラムとして、

『 懐疑は、おそらく叡智の始めかも知れない。しかし、叡智の始まる処に芸術は終るのだ 』

というアンドレ・ジィドの言葉を引用しています。小林秀雄が 、懸賞応募論文であり、デビュー作ともなる論文の冒頭に「エピグラム」として掲げた言葉だけに、単なる「飾り」ではありません。私は、この論文全体を象徴する深い意味があると思います。では、このアンドレ・ジィドの言葉には、どういう深い意味が隠されているのでしょうか。ここで、アンドレ・ジィドは、二つのことを言っています。『 懐疑は、おそらく叡智の始めかも知れない。』ということと、『 しかし、叡智の始まる処に芸術は終るのだ。』ということの二つです。まず、前者の説明から。そもそも、アンドレ・ジイドの言う「懐疑」と何であり、「叡智」とは何でしょうか。


(続く)

小林秀雄の『様々なる意匠』について話そう。(3)

「懐疑」とは、「疑うこと」や「疑問を持つこと」です。懐疑には、明確な理由や原因はない。「直感」や「感受性」に近い。これに対して「叡智」とは、「知性」や「教養」「知識」「学問」・・・などであろう。つまり、合理根拠に基づく思考とその成果の集合体・・・。
《 懐疑は、おそらく叡智の始めかも知れない。》
と、アンドレ・ジイドが言うのは、誤解を恐れずに言えば、「疑うことが学問の始まりだ」と言うようなことでしょう。ここで、重点は、「叡智」より「懐疑」の方にあります。つまり、アンドレ・ジイドも小林秀雄も、明らかに、「懐疑」を重視しています。何か疑問を持つこと、「あれ?」「変だな?」「何かおかしいぞ!」と、意味や原因や理由は明確ではないが、それ故に、合理的根拠はないが、素朴な疑いの感情を持つことこそが、重要だと、言っているように見えます。そこで 、後半の文章が生きてきます。
《しかし、叡智の始まる処に芸術は終るのだ 。》
この文章は、またまた、誤解を恐れずに言えば、こういうことではないでしょうか。「学問や教養の始まる処に芸術は終わる」ということです。つまり、「芸術や文学は、学問や教養とは違う」ということです。アンドレ・ジイドも小林秀雄も、《 しかし、叡智の始まる処に芸術は終るのだ》という言葉で、「芸術自立宣言」「文学自立宣言」を行っていると言うことが出来ます。言い換えれば、芸術や文学の本質、あるいはその存在根拠は、「叡智」ではなく、「懐疑」にあるということでしょう。叡智が出来上がった学問の総体だとすれば、その学問の総体の根拠を疑い、学問の総体に「異議申し立て」をするのが「懐疑」であり、その「懐疑の精神」こそが、アンドレ・ジイドうや小林秀雄の言う「芸術」であり「文学」だということでしょう。これが、小林秀雄のデビュー作『様々なる意匠』の根本思想であるだけでなく、小林秀雄の批評家人生の根本思想でもありました。では、次に『様々なる意匠』の本文を読んで行きましょう。小林秀雄は、冒頭から謎めいた文章の断片を、次々と書き連ねていきます。
(続く)


小林秀雄の『様々なる意匠』について話そう。(4)

小林秀雄は、『様々なる意匠』という「改造社」が募集した懸賞応募論文に、それまで蓄積していた文学的教養や経験を総動員して、精魂を傾けて書き上げ、しかも、一等当選を確信していたということです。結果は、宮本顕治(後の共産党議長)の『 敗北の文学(芥川龍之介論)』が一等で、 小林秀雄の『様々なる意匠』は二等でした。昭和4年のことでした。宮本顕治の『 敗北の文学』が一等になったことが象徴するように、当時はマルクス主義全盛の時代でした。小林秀雄の『様々なる意匠』は、二等になったといえ、自信作であり問題作に違いはありません。雑誌「改造」に掲載されると、様々な反響を呼んで、「小林秀雄」という名前は、あっというまに、文壇や論壇で 注目を浴び、翌年、文芸春秋5月号から「文芸時評」の連載が始まると、まさに「時の人」となりました。こうして、「批評家・小林秀雄の誕生」という文学史上の新しいドラマが始まるのです。では、その『様々なる意匠』の本文を見てみましょう。こういう文で、始まります。
《吾々にとって幸福な事か不幸な事か知らないが、世に一つとして簡単に片付く問題はない。》
「世に一つとして簡単に片付く問題はない」とは 、どういう意味でしょうか。なるほど、世の中には解決困難な問題も、解決不可能な問題もあるでしょう。しかし、小林秀雄は、そんなことは言っていません。あらゆる問題が解決困難であると言っています。しかし、むろん、世の中には、解決可能な問題も、簡単に片付く問題もあるはずです。では、小林秀雄は、ここで、何が言いたいのか。小林秀雄が、冒頭の文を、いい加減な気持ちで書くはずがありません。おそらく、何か深い意味があるのでしょう。実は、小林秀雄は、これに続く文章を読むと分かるように、言語と思考に関わる「言語論」を論じているのです。


小林秀雄の『様々なる意匠』について話をしよう(5)。
小林秀雄は、『様々なる意匠』の冒頭の文を、《吾々にとって幸福な事か不幸な事か知らないが、世に一つとして簡単に片付く問題はない。》という挑戦的な文で始めて、それに続けて、こう書いています。小林秀雄が、このデビュー作で、何を問題にしようとしているかが、朧げに見えてきます。
《 遠い昔、人間が意識と共に与えられた言葉という思索の唯一の武器は、依然として昔ながらの魔術を止めない。 》

《 劣悪を指嗾しない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない。しかも、もし言葉がその人心眩惑の魔術を捨てたら恐らく影に過ぎまい。》

実は、高校時代から、小林秀雄を愛読、熟読してきた私にとって、ここが、もっとも難解な、解読不可能な部分でした。特に、《 劣悪を指嗾しない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない。》という部分が・・・。いずれにしろ、ここで、小林秀雄は、「人心眩惑の魔術」を発揮する「言葉」というものを問題にしようとしています。小林秀雄が、『様々なる意匠』で、提起した問題は、言葉の問題、つまり、「言語論」なのだということが分かります。小林秀雄jは、「思索する唯一の武器」としての「言語 =言葉」を問題にします。つまり、人間は、言語=言葉を使って思索する。しかし、その言語=言葉は、人間の思い通りに、自由気侭に操れる道具ではない、というのが小林秀雄の重要な言語観です。「人心眩惑の魔術」とは、そういうことです。ここから、人間は、主体的に、自由に、「考える」のではなく、言語に、その「人心眩惑の魔術」をかけられて、「考えさせられる」のだという思想が出てきます。「考える」のではなく、「考えさせられる」・・・。考えることの難しさ・・・。

(続く)