エッセイ研究

■文体論について。

●文学・芸術の本質は、『自分』『私』『自己』である。

他人の言動を批判したり、他人の言動を解説することは、文学・芸術的な表現とは異なる。文学・芸術は「自己表現」である。外野席から、傍観者という立場から、他人事みたいに語るのは、文学・芸術的な表現に反する。

●文章の主体化ー自分が「主人公」である。
       「自分」を語れ。「自己」を語れ。「私」を語れ。

●たとえば、先週のテーマ「ユーチューブ」を語り、論じる時、そこに「自分」がいたか。他人事として語っていなかったか。「私」は何をするのか。「私」は何もしないのか。「傍観者」的立場(視点)にとどまるのか。

●私の「ファミリーストーリー」(NHK)について。

●「私のファミリーストーリー」、あるいは「父親と私」などのテーマについて、個人的な感想を述べよ。

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小林秀雄マルクス(2020=12)

小林秀雄マルクスというテーマで、長々と連載を続けてきたが、そろそろ終わりにしようかと思っている。

私は、マルクスエンゲルスの差異、あるいはマルクスマルクス主義の差異について、多くのページをさいてきた。そこで、私は、一貫して、「エンゲルス的思考」や「マルクス主義的思考」に対して否定的であった。それは、私が、小林秀雄にならって、マルクスを、つまりマルクス的思考の重要性を力説し強調してきたからだ。しかし、言うまでもなく、思想や哲学としてのマルクス主義の、異常な「流行」と「伝搬」、そしてその「影響力」は、マルクスと言うよりもマルクス主義によるものだった。つまり、マルクスの「影響力」は、マルクス個人の思考にとどまらずに、エンゲルスレーニンなどによって作り上げられた「マルクス主義」という思想によるものだっったからだ。私が、小林秀雄を参考に、繰り返し強調してきたマルクス的思考の復権は、重要であることはもちろんだが、それだけでは、マルクスマルクス主義を語り、論じる上では、やはり不充分だろうと思う。マルクス主義の神髄の大部分は、やはり「マルクス主義」にあるからだ。つまり、「唯物史観」や「弁証法唯物論」、あるいは「人類の歴史は階級闘争の歴史であった」という階級闘争史観、「国家の死滅」を唱えるマルクス主義国家論、革命闘争という実践活動を要請する「革命論」、あるいは「ロシア革命」に象徴される具体的な「共産主義国家の誕生」という歴史的な現実・・・にあるからだ。
小林秀雄だって、そのことが分かっていなかったわけではない。そもそも、小林秀雄マルクス主義という思想と論争・対決することになったのは、マルクス主義という思想に驚異と脅威を感じたからである。

廣松渉は、マルクス主義的な「唯物史観」の誕生は、『ドイツ・イデオロギー』における原稿の筆跡などの分析から、マルクス主導ではなくエンゲルス主導で作り上げられたのではないかと言うが、おそらくそうだったに違いない。われわれが、現在、マルクス主義として理解しているものの多くは、「エンゲルス主義」とでも言うべきものなのであろう。

あらゆる思想は、理論化され、体系化・公式化されることによって普及・発展、そして、やがて堕落・衰退するという宿命をまぬがれない。「エンゲルス主義としてのマルクス主義」もまたそうだったといっていい。言い換えれば、マルクス的思考は、あくまでもマルクスの個人的な思考であったが、「マルクス主義」という思想への萌芽と可能性を秘めていたということでもあろう。「そういう可能性」とは、「あらゆる思想は、理論化され、体系化・公式化されることによって普及・発展、そして、やがて堕落・衰退するという宿命」のことである。そして、そういう思想や哲学は、単なる思想や哲学にとどまらず、つまり教養や知識、あるいは娯楽や趣味にとどまらず、実践活動や革命活動、そして究極的には「死」を要求する。私は、「死」を要求しない思想はニセモノだと思う。その意味で、マルクス主義という思想もニセモノではない。たとえばロシア革命の歴史を振り返るまでもなく、マルクス主義の名の下に死んでいった人間は、膨大である。机上の空論として、あるいは知識や教養としてのマルクス主義も無数にあるだろうが、マルクス主義という思想・イデオロギーは、他のどんな思想・イデオロギーにも劣らない「死」や「死者」を生み出している。

私は、今、明治維新という革命運動を、西郷隆盛西郷南洲)を中心にして描く『南洲伝』というものを書いているが、「明治維新の志士たち」の多くも、明治維新という革命運動を「死」を賭けて闘い、その闘いの現場で、命を投げ出している。「生き残った者」や「成功者」だけが歴史を作ったわけではない。むしろ、私は、「生き残った者」や「成功者」には、何か不純なもの、いかがわしいものを感じる。偉大な思想は「死」を要求する。言い換えれば、「死」を要求しない思想はホンモノではない。私は、今、マルクスマルクス主義と直結するロシア革命というものと、明治維新というものを、同列に、等価なものとして描いているが、「思想に命を賭ける」という意味で、私の中では、ロシア革命明治維新も「等価」なのだ。

小林秀雄は、「トルストイの家出・野垂れ死」問題を論じた『思想と実生活』『文学者の思想と実生活』という小論文で、「思想」の重大さについて論じている。これは、作家の正宗白鳥との論争の過程で書いたもので、かなり激しい口調で「実生活」を強調し、「思想」なるものを軽視する正宗白鳥に対して、小林秀雄も負けず劣らずの激しい口調で、「思想」なるもの重要性を擁護している。マルクス主義という思想批判を繰り返してきた小林秀雄という観点から、つまりそういう先入見から見るるならば、やや矛盾しているようにも見えるが、小林秀雄の真意は、何処にあったのだろうか。

《「ああ、わが敬愛するトルストイ翁!貴方は果たして山の神なんかを恐れたか。僕は信じない。彼は確かに恐れた、日記を読んでみよ。そんな言葉を僕は信じないのである。彼の心が、『人生に対する抽象的煩悶』で燃えていなかったならば、恐らく彼は山の神を恐れる要もなかったであろう」、「あらゆる思想は実生活から生まれる。併し生まれて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか」。以上の文を、正宗氏は僕の文から引用し、必ずしも愚説ではないが、トルストイが細君を恐れたことに変わりはない、というのである。・・・・・・。(中略)
 実生活を離れて思想はない。併し、実生活に犠牲を要求しない様な思想は、動物の頭に宿っているだけである。社会的秩序とは実生活が、思想に払った犠牲に外ならぬ。その現実性の濃淡は、払った犠牲の深浅に比例する。伝統という言葉が成立するのもそこである。この事情は個人の場合でも同様だ。思想は実生活の普段の犠牲によって育つのである。》(小林秀雄『思想と実生活』)

私は、この正宗白鳥との「思想と実生活」論争から、小林秀雄の「マルクス主義」論の二重性(パラドックス)を読みとる。小林秀雄は、デビューから晩年まで、一貫して、思想的なものを批判し、否定してきた。しかし、正宗白鳥との論争では、逆である。思想を擁護している。 つまりマルクス主義という思想とイデオロギーを徹底批判した小林秀雄が、ここでは、思想というものの「力」と「偉大さ」を力説している。言い換えれば、マルクス主義という思想の欺瞞と虚構を批判しながら、同時に、マルクス主義という思想の「力」と「偉大さ」を力説している、と読みとれる。小林秀雄は、矛盾することを言っているのか。そんなことはない。小林秀雄は、思想なるものを批判すると同時に、その思想なるものを激しく擁護してもいるのだ。一見、矛盾しているように見えるが、これは、矛盾ではない。

論点を明確化するために、正宗白鳥の文章も、小林秀雄が『思想と実生活』で引用しているので、孫引きになるが、引用しておこう。正宗白鳥の言い分である。

《二五年前、トルストイが家出して、田舎の停車場で病死した報道が日本に伝わった時、人生に対する抽象的煩悶に堪えず、救済を求める旅に上ったという表面的事実を、日本の文壇人はそのままに信じて、甘ったれた感動を起こしたりしたのだが、実際は妻君を怖がって逃げたのであった人生救済の本家のように世界の読者に信頼されていたトルストイが、山の神を恐れ、おどおどと家を抜け出て、孤住独邁の旅に出て、ついに野垂れ死した経路を日記で熟読すると、悲壮でもあり滑稽でもあり、人生の真相を鏡に掛けて見る如くである。ああ、わがトルストイ翁!》(正宗白鳥

この文から、正宗白鳥の「自然主義的リアリズム」の強固な精神を読みとることは可能だが、小林秀雄が、この一文を読み、「激高」(?)したのは、あまりにも思想的なものへの蔑視・軽視がひどいと思ったからではないか。その時、小林秀雄の脳裏をかすめていた思想とは、小林秀雄が、これまで闘ってきたマルクス主義という手強い「思想」だったにちがいない。「実生活」という現実問題を重視するだけで、そうやすやすと、思想問題は解決しない、と考えたからだろう。少なくとも、小林秀雄が対決したマルクス主義という思想は、そんな、甘ったれた、ひ弱な思想ではなかった、と考えたからだろう。
それが、小林秀雄の「あらゆる思想は実生活から生まれる。併し生まれて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか」「実生活に犠牲を要求しない思想はない」とい言葉の真意だろう。
 これは、観念論か唯物論か、あるいは思想か現実か、という二元論のようにも見えるが、少なくとも小林秀雄にとっては、あるいはマルクスにとっては、そうではない。小林秀雄は、デビュー作『様々なる意匠』で、こう書いている。
《脳細胞から意識を引き出す唯物論も、精神から存在を引き出す観念論
も等しく否定したマルクス唯物史観における「物」は瓢瓢たる精神ではない事はもちろんだが、また固定した物質でもない。》(『様々なる意匠』)

山崎行太郎資料館
山崎行太郎資料館
2020-12-09

小林秀雄マルクス(2020=12)

小林秀雄マルクスというテーマで、長々と連載を続けてきたが、そろそろ終わりにしようかと思っている。

私は、マルクスエンゲルスの差異、あるいはマルクスマルクス主義の差異について、多くのページをさいてきた。そこで、私は、一貫して、「エンゲルス的思考」や「マルクス主義的思考」に対して否定的であった。それは、私が、小林秀雄にならって、マルクスを、つまりマルクス的思考の重要性を力説し強調してきたからだ。しかし、言うまでもなく、思想や哲学としてのマルクス主義の、異常な「流行」と「伝搬」、そしてその「影響力」は、マルクスと言うよりもマルクス主義によるものだった。


つまり、マルクスの「影響力」は、マルクス個人の思考にとどまらずに、エンゲルスレーニンなどによって作り上げられた「マルクス主義」という思想によるものだっったからだ。

私が、小林秀雄を参考に、繰り返し強調してきたマルクス的思考の復権は、重要であることはもちろんだが、それだけでは、マルクスマルクス主義を語り、論じる上では、やはり不充分だろうと思う。マルクス主義の神髄の大部分は、やはり「マルクス主義」にあるからだ。つまり、「唯物史観」や「弁証法唯物論」、あるいは「人類の歴史は階級闘争の歴史であった」という階級闘争史観、「国家の死滅」を唱えるマルクス主義国家論、革命闘争という実践活動を要請する「



革命論」、あるいは「ロシア革命」に象徴される具体的な「共産主義国家の誕生」という歴史的な現実・・・にあるからだ。
小林秀雄だって、そのことが分かっていなかったわけではない。そもそも、小林秀雄マルクス主義という思想と論争・対決することになったのは、マルクス主義という思想に驚異と脅威を感じたからである。

廣松渉は、マルクス主義的な「唯物史観」の誕生は、『ドイツ・イデオロギー』における原稿の筆跡などの分析から、マルクス主導ではなくエンゲルス主導で作り上げられたのではないかと言うが、おそらくそうだったに違いない。われわれが、現在、マルクス主義として理解しているものの多くは、「エンゲルス主義」とでも


言うべきものなのであろう。

あらゆる思想は、理論化され、体系化・公式化されることによって普及・発展、そして、やがて堕落・衰退するという宿命をまぬがれない。「エンゲルス主義としてのマルクス主義」もまたそうだったといっていい。言い換えれば、マルクス的思考は、あくまでもマルクスの個人的な思考であったが、「マルクス主義」という思想への萌芽と可能性を秘めていたということでもあろう。「そういう可能性」とは、「あらゆる思想は、理論化され、体系化・公式化されることによって普及・発展、そして、やがて堕落・衰退するという宿命」のことである。そして、そういう思想や哲学は、単なる思想や哲学にとどまらず、つまり教養や


知識、あるいは娯楽や趣味にとどまらず、実践活動や革命活動、そして究極的には「死」を要求する。私は、「死」を要求しない思想はニセモノだと思う。その意味で、マルクス主義という思想もニセモノではない。たとえばロシア革命の歴史を振り返るまでもなく、マルクス主義の名の下に死んでいった人間は、膨大である。机上の空論として、あるいは知識や教養としてのマルクス主義も無数にあるだろうが、マルクス主義という思想・イデオロギーは、他のどんな思想・イデオロギーにも劣らない「死」や「死者」を生み出している。

私は、今、明治維新という革命運動を、西郷隆盛西郷南洲)を中心にして描く『南洲伝』というものを書いているが、「

明治維新の志士たち」の多くも、明治維新という革命運動を「死」を賭けて闘い、その闘いの現場で、命を投げ出している。「生き残った者」や「成功者」だけが歴史を作ったわけではない。むしろ、私は、「生き残った者」や「成功者」には、何か不純なもの、いかがわしいものを感じる。偉大な思想は「死」を要求する。言い換えれば、「死」を要求しない思想はホンモノではない。私は、今、マルクスマルクス主義と直結するロシア革命というものと、明治維新というものを、同列に、等価なものとして描いているが、「思想に命を賭ける」という意味で、私の中では、ロシア革命明治維新も「等価」なのだ。

小林秀雄は、「んbの家出・野垂れ



死」問題を論じた『思想と実生活』『文学者の思想と実生活』という小論文で、「思想」の重大さについて論じている。これは、作家の正宗白鳥との論争の過程で書いたもので、かなり激しい口調で「実生活」を強調し、「思想」なるものを軽視する正宗白鳥に対して、小林秀雄も負けず劣らずの激しい口調で、「思想」なるもの重要性を擁護している。マルクス主義という思想批判を繰り返してきた小林秀雄という観点から、つまりそういう先入見から見るるならば、やや矛盾しているようにも見えるが、小林秀雄の真意は、何処にあったのだろうか。

《「ああ、わが敬愛するトルストイ翁!貴方は果たして山の神なんかを恐れたか。僕は信じない。彼は確かに

恐れた、日記を読んでみよ。そんな言葉を僕は信じないのである。彼の心が、『人生に対する抽象的煩悶』で燃えていなかったならば、恐らく彼は山の神を恐れる要もなかったであろう」、「あらゆる思想は実生活から生まれる。併し生まれて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか」。以上の文を、正宗氏は僕の文から引用し、必ずしも愚説ではないが、トルストイが細君を恐れたことに変わりはない、というのである。・・・・・・。(中略)
 実生活を離れて思想はない。併し、実生活に犠牲を要求しない様な思想は、動物の頭に宿っているだけである。社会的秩序とは実生活が、思想に払った犠牲

に外ならぬ。その現実性の濃淡は、払った犠牲の深浅に比例する。伝統という言葉が成立するのもそこである。この事情は個人の場合でも同様だ。思想は実生活の普段の犠牲によって育つのである。》(小林秀雄『思想と実生活』)

私は、この正宗白鳥との「思想と実生活」論争から、小林秀雄の「マルクス主義」論の二重性(パラドックス)を読みとる。小林秀雄は、デビューから晩年まで、一貫して、思想的なものを批判し、否定してきた。しかし、正宗白鳥との論争では、逆である。思想を擁護している。 つまりマルクス主義という思想とイデオロギーを徹底批判した小林秀雄が、ここでは、思想というものの「力」と「偉大さ」を力説している。言い換

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えれば、マルクス主義という思想の欺瞞と虚構を批判しながら、同時に、マルクス主義という思想の「力」と「偉大さ」を力説している、と読みとれる。小林秀雄は、矛盾することを言っているのか。そんなことはない。小林秀雄は、思想なるものを批判すると同時に、その思想なるものを激しく擁護してもいるのだ。一見、矛盾しているように見えるが、これは、矛盾ではない。

論点を明確化するために、正宗白鳥の文章も、小林秀雄が『思想と実生活』で引用しているので、孫引きになるが、引用しておこう。正宗白鳥の言い分である。

《二五年前、トルストイが家出して、田舎の停車場で病死した報道が日本に伝わった時、人生に対する抽象的煩悶に堪

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えず、救済を求める旅に上ったという表面的事実を、日本の文壇人はそのままに信じて、甘ったれた感動を起こしたりしたのだが、実際は妻君を怖がって逃げたのであった人生救済の本家のように世界の読者に信頼されていたトルストイが、山の神を恐れ、おどおどと家を抜け出て、孤住独邁の旅に出て、ついに野垂れ死した経路を日記で熟読すると、悲壮でもあり滑稽でもあり、人生の真相を鏡に掛けて見る如くである。ああ、わがトルストイ翁!》(正宗白鳥

この文から、正宗白鳥の「自然主義的リアリズム」の強固な精神を読みとることは可能だが、小林秀雄が、この一文を読み、「激高」(?)したのは、あまりにも思想的なものへの蔑視・軽視がひど

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いと思ったからではないか。その時、小林秀雄の脳裏をかすめていた思想とは、小林秀雄が、これまで闘ってきたマルクス主義という手強い「思想」だったにちがいない。「実生活」という現実問題を重視するだけで、そうやすやすと、思想問題は解決しない、と考えたからだろう。少なくとも、小林秀雄が対決したマルクス主義という思想は、そんな、甘ったれた、ひ弱な思想ではなかった、と考えたからだろう。
それが、小林秀雄の「あらゆる思想は実生活から生まれる。併し生まれて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか」「実生活に犠牲を要求しない思想はない」とい言葉の真意だろう。
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小林秀雄マルクス(2020=12)

小林秀雄マルクスというテーマで、長々と連載を続けてきたが、そろそろ終わりにしようかと思っている。

私は、マルクスエンゲルスの差異、あるいはマルクスマルクス主義の差異について、多くのページをさいてきた。そこで、私は、一貫して、「エンゲルス的思考」や「マルクス主義的思考」に対して否定的であった。それは、私が、小林秀雄にならって、マルクスを、つまりマルクス的思考の重要性を力説し強調してきたからだ。しかし、言うまでもなく、思想や哲学としてのマルクス主義の、異常な「流行」と「伝搬」、そしてその「影響力」は、マルクスと言うよりもマルクス主義によるものだった。


つまり、マルクスの「影響力」は、マルクス個人の思考にとどまらずに、エンゲルスレーニンなどによって作り上げられた「マルクス主義」という思想によるものだっったからだ。

私が、小林秀雄を参考に、繰り返し強調してきたマルクス的思考の復権は、重要であることはもちろんだが、それだけでは、マルクスマルクス主義を語り、論じる上では、やはり不充分だろうと思う。マルクス主義の神髄の大部分は、やはり「マルクス主義」にあるからだ。つまり、「唯物史観」や「弁証法唯物論」、あるいは「人類の歴史は階級闘争の歴史であった」という階級闘争史観、「国家の死滅」を唱えるマルクス主義国家論、革命闘争という実践活動を要請する「革命論」、あるいは「ロシア革命」に象徴される具体的な「共産主義国家の誕生」という歴史的な現実・・・にあるからだ。
小林秀雄だって、そのことが分かっていなかったわけではない。そもそも、小林秀雄マルクス主義という思想と論争・対決することになったのは、マルクス主義という思想に驚異と脅威を感じたからである。







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廣松渉は、マルクス主義的な「唯物史観」の誕生は、『ドイツ・イデオロギー』における原稿の筆跡などの分析から、マルクス主導ではなくエンゲルス主導で作り上げられたのではないかと言うが、おそらくそうだったに違いない。われわれが、現在、マルクス主義として理解しているものの多くは、「エンゲルス主義」とでも言うべきものなのであろう。

あらゆる思想は、理論化され、体系化・公式化されることによって普及・発展、そして、やがて堕落・衰退するという宿命をまぬがれない。「エンゲルス主義としてのマルクス主義」もまたそうだったといっていい。言い換えれば、マルクス的思考は、あくまでもマルクスの個人的な思考であったが、「マルクス主義」という思想への萌芽と可能性を秘めていたということでもあろう。「そういう可能性」とは、「あらゆる思想は、理論化され、体系化・公式化されることによって普及・発展、そして、やがて堕落・衰退するという宿命」のことである。そして、そういう思想や哲学は、単なる思想や哲学にとどまらず、つまり教養や知識、あるいは娯楽や趣味にとどまらず、実践活動や革命活動、そして究極的には「死」を要求する。私は、「死」を要求しない思想はニセモノだと思う。その意味で、マルクス主義という思想もニセモノではない。たとえばロシア革命の歴史を振り返るまでもなく、マルクス主義の名の下に死んでいった人間は、膨大である。机上の空論として、あるいは知識や教養としてのマルクス主義も無数にあるだろうが、マルクス主義という思想・イデオロギーは、他のどんな思想・イデオロギーにも劣らない「死」や「死者」を生み出している。

私は、今、明治維新という革命運動を、西郷隆盛西郷南洲)を中心にして描く『南洲伝』というものを書いているが、「明治維新の志士たち」の多くも、明治維新という革命運動を「死」を賭けて闘い、その闘いの現場で、命を投げ出している。「生き残った者」や「成功者」だけが歴史を作ったわけではない。むしろ、私は、「生き残った者」や「成功者」には、何か不純なもの、いかがわしいものを感じる。偉大な思想は「死」を要求する。言い換えれば、「死」を要求しない思想はホンモノではない。私は、今、マルクスマルクス主義と直結するロシア革命というものと、明治維新というものを、同列に、等価なものとして描いているが、「思想に命を賭ける」という意味で、私の中では、ロシア革命明治維新も「等価」なのだ。

小林秀雄は、「んbの家出・野垂れ死」問題を論じた『思想と実生活』『文学者の思想と実生活』という小論文で、「思想」の重大さについて論じている。これは、作家の正宗白鳥との論争の過程で書いたもので、かなり激しい口調で「実生活」を強調し、「思想」なるものを軽視する正宗白鳥に対して、小林秀雄も負けず劣らずの激しい口調で、「思想」なるもの重要性を擁護している。マルクス主義という思想批判を繰り返してきた小林秀雄という観点から、つまりそういう先入見から見るるならば、やや矛盾しているようにも見えるが、小林秀雄の真意は、何処にあったのだろうか。

《「ああ、わが敬愛するトルストイ翁!貴方は果たして山の神なんかを恐れたか。僕は信じない。彼は確かに恐れた、日記を読んでみよ。そんな言葉を僕は信じないのである。彼の心が、『人生に対する抽象的煩悶』で燃えていなかったならば、恐らく彼は山の神を恐れる要もなかったであろう」、「あらゆる思想は実生活から生まれる。併し生まれて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか」。以上の文を、正宗氏は僕の文から引用し、必ずしも愚説ではないが、トルストイが細君を恐れたことに変わりはない、というのである。・・・・・・。(中略)
 実生活を離れて思想はない。併し、実生活に犠牲を要求しない様な思想は、動物の頭に宿っているだけである。社会的秩序とは実生活が、思想に払った犠牲に外ならぬ。その現実性の濃淡は、払った犠牲の深浅に比例する。伝統という言葉が成立するのもそこである。この事情は個人の場合でも同様だ。思想は実生活の普段の犠牲によって育つのである。》(小林秀雄『思想と実生活』)

私は、この正宗白鳥との「思想と実生活」論争から、小林秀雄の「マルクス主義」論の二重性(パラドックス)を読みとる。小林秀雄は、デビューから晩年まで、一貫して、思想的なものを批判し、否定してきた。しかし、正宗白鳥との論争では、逆である。思想を擁護している。 つまりマルクス主義という思想とイデオロギーを徹底批判した小林秀雄が、ここでは、思想というものの「力」と「偉大さ」を力説している。言い換えれば、マルクス主義という思想の欺瞞と虚構を批判しながら、同時に、マルクス主義という思想の「力」と「偉大さ」を力説している、と読みとれる。小林秀雄は、矛盾することを言っているのか。そんなことはない。小林秀雄は、思想なるものを批判すると同時に、その思想なるものを激しく擁護してもいるのだ。一見、矛盾しているように見えるが、これは、矛盾ではない。

論点を明確化するために、正宗白鳥の文章も、小林秀雄が『思想と実生活』で引用しているので、孫引きになるが、引用しておこう。正宗白鳥の言い分である。

《二五年前、トルストイが家出して、田舎の停車場で病死した報道が日本に伝わった時、人生に対する抽象的煩悶に堪えず、救済を求める旅に上ったという表面的事実を、日本の文壇人はそのままに信じて、甘ったれた感動を起こしたりしたのだが、実際は妻君を怖がって逃げたのであった人生救済の本家のように世界の読者に信頼されていたトルストイが、山の神を恐れ、おどおどと家を抜け出て、孤住独邁の旅に出て、ついに野垂れ死した経路を日記で熟読すると、悲壮でもあり滑稽でもあり、人生の真相を鏡に掛けて見る如くである。ああ、わがトルストイ翁!》(正宗白鳥

この文から、正宗白鳥の「自然主義的リアリズム」の強固な精神を読みとることは可能だが、小林秀雄が、この一文を読み、「激高」(?)したのは、あまりにも思想的なものへの蔑視・軽視がひどいと思ったからではないか。その時、小林秀雄の脳裏をかすめていた思想とは、小林秀雄が、これまで闘ってきたマルクス主義という手強い「思想」だったにちがいない。「実生活」という現実問題を重視するだけで、そうやすやすと、思想問題は解決しない、と考えたからだろう。少なくとも、小林秀雄が対決したマルクス主義という思想は、そんな、甘ったれた、ひ弱な思想ではなかった、と考えたからだろう。
それが、小林秀雄の「あらゆる思想は実生活から生まれる。併し生まれて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか」「実生活に犠牲を要求しない思想はない」とい言葉の真意だろう。
 これは、観念論か唯物論か、あるいは思想か現実か、という二元論のようにも見えるが、少なくとも小林秀雄にとっては、あるいはマルクスにとっては、そうではない。小林秀雄は、デビュー作『様々なる意匠』で、こう書いている。
《脳細胞から意識を引き出す唯物論も、精神から存在を引き出す観念論
も等しく否定したマルクス唯物史観における「物」は瓢瓢たる精神ではない事はもちろんだが、また固定した物質でもない。》(『様々なる意匠』)

小林秀雄マルクス(2020=12)

小林秀雄マルクスというテーマで、長々と連載を続けてきたが、そろそろ終わりにしようかと思っている。

私は、マルクスエンゲルスの差異、あるいはマルクスマルクス主義の差異について、多くのページをさいてきた。そこで、私は、一貫して、「エンゲルス的思考」や「マルクス主義的思考」に対して否定的であった。それは、私が、小林秀雄にならって、マルクスを、つまりマルクス的思考の重要性を力説し強調してきたからだ。しかし、言うまでもなく、思想や哲学としてのマルクス主義の、異常な「流行」と「伝搬」、そしてその「影響力」は、マルクスと言うよりもマルクス主義によるものだった。

小林秀雄とマルクス()山崎行太郎

小林秀雄マルクス()山崎行太郎

小林秀雄は、マルクス主義を批判した。しかし、その批判は、単純ではない。現代日本では、マルクス主義共産主義を批判することは一種に流行、定番となっている。たとえば、「ネット右翼」と言われるような、通俗的保守主義通俗的右翼主義までが横行し、マルクス主義共産主義、あるいは、共産党を「眼の仇」にしている。もちろん、彼らは、マルクス主義共産主義を、あるいはその歴史を、正確に理解した上で批判しているわけではない。したがって、彼らのマルクス主義批判と小林秀雄のそれを、同一視する事は出来ない。しかし、「ネット右翼」と言われる連中の存在も無視できない。現代日本の思想状況を象徴する
存在と言っていいからだ。「ネット右翼化現象」は、一部の無知無学な若者たちだけでなく、我が国のインテリ・学者・文化人をも含む、社会の深層部にまで及んでいるからだ。
小林秀雄は、「ネット右翼」と呼ばれている連中とは異なり、むしろ、マルクス主義を評価し、マルクス主義の歴史的役割を絶賛しているといっていい。小林秀雄マルクス主義批判は、マルクス主義を正当に評価した上での批判である。
先日、立憲民主党と国民民主党の間で、野党大合流の話が、いよいよ大詰めを迎えようとしている時、「共産党」と組むのだけは嫌だ、と言う人が何人か登場し、合流に参加しない、と言い出して、話題になったことがあった。私は、「共産党」を特別視し、「共産党」と連携することだけには反対だ、という主張が間違っていると言うつもりはない。だが、保守・右翼陣営ならともかくとしても、野党陣営の間でさえ、「共産党」だけにアレルギーを持っている人が存在するということに、深い関心を持った。何故、共産党なのか。それは、右翼・保守派の無知無学に由来する素朴な「共産党アレルギー」の影響、あるいは模倣に過ぎないのではないか。あるいは、自民党サイドから仕掛けられた野党分断工作に便乗しただけでは、ないのか。
 私が、今、問題にしている小林秀雄は、そういう単純素朴な「共産党アレルギー」の持ち主ではなかった。小林秀雄は、マルクス主義共産主義の運動が、近代日本の思想史上、重要な役割を持って登場したことの歴史的意義を、深く理解していた。小林秀雄が、文壇や論壇に彗星のごとく登場した昭和初期という時代は、まさしく、マルクス主義共産主義という思想が、日本中を席巻していた時代であった。大学生や知識人たちの多くが、マルクス主義共産主義に洗脳され、いわゆる「マルクス・ボーイ」と呼ばれたような時代だった。小林秀雄の周辺にいる友人たちの多くも、マルクス主義共産主義の信奉者になっていた。そういう時代に、小林秀雄は、思想的自己形成を遂げるのである。
つまり、小林秀雄は、マルクス主義共産主義に同調するのではなく、「対決」することによって、「近代批評なるもの」を創り出していった。それは、孤軍奮闘の戦いであった。逆説的に表現するならば、小林秀雄が「批評家」になりえたのはマルクス主義共産主義の「おかげ」だった。マルクス主義共産主義という過激な思想が猛威をふるっていたからこそ、小林秀雄は、その過激思想と対決し、論争し、論破しなければならなかったのである。
逆に、現代日本の「共産党と組むのは嫌だ」と言う「共産党アレルギー」の人たちには、そういう真剣な対決の構図はない。マルクス主義共産主義を、ナチズムやファシズム、あるいは全体主義と同一視し、勘違いしているにすぎない。そういう言葉に、賛同・共感する人々は、現代日本の政界や論壇やジャーナリズムには、同じ「共産党アレルギー」の持ち主が少なくないことを知っているのだろう。大衆への迎合であり、俗情との結託である。私は、現代日本の思想的地盤低下を象徴していると思う。
 「共産党アレルギー」を持ち出す人たちは、実は、単に「野党合流」が自分には政治的に不利だ、という利害打算的思惑から、言い訳として「共産党アレルギー」を持ち出しているだけかもしれない。が、やはり、単なる言い訳だとしても、「共産党アレルギー」があるということは、興味深い。そういう人々は、不思議なことに、自民党が連立を組んでいる「公明党」という宗教政党を問題にすることはない。おそらく、そういう人たちは、日本の政党の中で共産党だけが、「革命」という明確な政治的、理論的イデオロギーを持つことに拒否反応を示しているつもりなのだと思う。
 そもそも、現代日本保守系エリート層にも、大量の「元共産党員」「元共産主義者」が存在するはずである。読売新聞の渡辺恒雄や戦後右翼運動の中心人物の一人となった田中清玄、作家の林房雄、評論家西部すすむ・・・。彼らは、共産党員時代、あるいは共産主義者時代に学んだマルクス主義的な「理論的思考力」を、転向後、右翼・保守陣営で活躍するようになってからも、保持していた。西部に至っては、保守思想を、マルクス主義的に、あるいは共産主義的に、理論化、体系化したのである。昨今の「ネット右翼」と呼ばれる連中は、自分たちの信奉している保守・右翼思想なるものの骨格の大部分が、マルクス主義共産主義によって構築され、理論化、体系化されていることを知らない人たちである。「共産党アレルギー」にせよ「共産党批判」にせよ、天に唾するようなものなのだ。
  しかし、いずれにしろ、小林秀雄が、マルクス主義共産党を批判したのは、そういう政治的、理論的なイデオロギーのためではない。厳密に言い換えれば、小林秀雄は、マルクス主義共産党イデオロギーの登場を、逆説的に評価している。マルクス主義共産主義は、徹底的に理論的、且つ実践的であることにによって、当時の若者たちを魅了した。いわあゆる「マルクス・ボーイ」の大量出現であった。それを前に、小林秀雄は、一人、立ち止まり、マルクス主義共産主義と、理論的に「対決」したのである。次の文章は、丸山眞男が『日本の思想』で取り上げた事もあり、かなり有名になったものだ。私も、何回か引用している重要な一文だ。小林秀雄が、何と闘ったかが分かるだろう。

《第一私たちは今日に至るまで、批評の領域にすら全く科学の手を感じないで来た、と言っても過言ではない。こういう状態にあった時、突然極端に科学的な批評方法が導入された。言うまでもなくマルクシズムの思想に乗じてである。導入それ自体には何ら偶然な事情はなかったとしても、これを受け取った文壇にとっては、まさしく唐突な事件であった。てんで用意というものがなかったのだ。当然その反響は、その実質より大きかった。そしてこの誇張された反響によって、この方法を導入した人たちも、これを受け取った人たちも等しく、この方法に類似した方法さえ、わが国の批評史の伝統中にはなかったという事を忘れてしまった。これは批評家等が誰も指摘しないわが国独特の事情である。》(「文学界の混乱」)

丸山眞男は、小林秀雄の分析は、まことに見事な分析だと、絶賛している。ここで、小林秀雄は、マルクス主義の歴史的役割とその意義を高く評価している。要するに、小林秀雄マルクス主義を批判したと言うだけでは、小林秀雄マルクス論の深層は理解できない。小林秀雄は、マルクス主義共産主義の「科学性」や「徹底性」「過激性」「恐ろしさ」もよく知っていた。それを高く評価していた。小林秀雄は、「思考の徹底性」「思考のラジカリズム」を、マルクス主義から学んだ、と言ってもいい。だから、丸山眞男の『日本の思想』に触発されて、当時の文壇や論壇」で議論された「理論信仰」と「実感信仰」という二元論とも違う。小林秀雄は、マルクス主義的な理論信仰に対して、文学的な実感信仰を主張したのではない。小林秀雄マルクス主義から「理論信仰」を学ぶと同時に、それを乗り越えようとして、「理論信仰」を貫いたのである。はじめから、「理論信仰」を捨てて、「実感信仰」を主張したわけではない。おそらく、ここらあたりに、小林秀雄マルクス論の独自性と徹底性がある。
 言い換えれば、小林秀雄は、マルクス主義共産主義を内側から乗り越えようとしている。小林秀雄と同時代にもマルクス主義共産主義を批判する人は、少なくなかった。しかし、彼らのマルクス主義批判や共産主義批判は、外側からなされたものであり、思想史的に価値あるものとして残っていない。たとえば、当時の自由主義者民族主義者・・・たちのマルクス主義批判や共産主義批判を、評価する人たちもいるかもしれないが、私は評価しない。読むに値するものとは思わない。ただ、もう一つの思想としての自由主義民族主義を主張したものにすぎない。
 小林秀雄は、そこが、決定的に違う。小林秀雄は、マルクス主義共産主義に対して、自由主義民族主義も主張していない。その他の思想も主張していない。

《私は、今日日本文壇のさまざまな意匠の、少なくとも重要とにえるものの間は、散歩したと信ずる。私は、何物かを求めようとしてこれらの意匠を軽蔑しようとしたのでは決してない。ただ一つの意匠をあまり信用し過ぎないために、むしろあらゆる意匠を信用しようと努めたに過ぎない。》(『様々なる意匠』)

ここに小林秀雄の立ち位置がある。しかし、それは立ち位置でもない微妙な場所である。孔子の言う「中庸」に近い。