『様々なる意匠』の解説。

小林秀雄「様々なる意匠」について

2003/05/25 inu

①論文の主たるモチーフは?

センターバッグではなくて……

この小論文は、1929年、小林秀雄27歳の作品で、文芸評論家としてのデビュー作となる。「改造」という雑誌の懸賞評論で第二席に選ばれたという。第一席は宮本顕治(たしか日本代表のセンターバックだった人だ。じゃなくって日本共産党の委員長、議長だった人だ。)の「敗北の文学」という論文だったそうだ(読んでいないので内実は分からないが、「文学そのもの価値」が問い直される時代ではあったようだ)。

「様々なる意匠」の骨子は、多くの批評家たちが「マルクス主義」「新感覚派」などと銘打たれた立場(切り口)、つまりある「意匠」のもとに諸々の作品を解釈し、論じ合い、「文壇」を賑わせていることに対して、そうした「意匠」が作品を感受するうえで共有可能な尺度足りうるのは(あるいは、ときに小林自身にとって内実ある尺度として感じられないのは)、どのような根拠によるものであるのかを、諸作品そのものに対する自身の感触を手がかりに解き明かしていくことにあるように見受けた。


ーーーーーーーーーーーー
私には常に舞台より楽屋の方が面白い。この様な私にも、やっぱり軍略は必要だとするなら、「搦手から」、これが私には最も人性論的法則に適った軍略に見えるのだ。
ーーーーーーーーーーーー

文中の言葉が示すように、「文壇」で流通している諸概念を自明な前提とせずに、「搦手」(裏側)に廻り(いわば「還元」を行うことで)、その意味と根拠をとらえ問い返していくことが、基本的な方法となる。それは自分にとって「面白い」ことであるし、自分に内在する性質、傾向性に合致している、と小林(秀雄)は認識する。(つまり、そうした立脚点からものごとをとらえることを求める、自己のありようを了解している。)

一連の考察を踏まえた上での結語としての言葉が以下のように語られる。


ーーーーーーーーーーーー
私は、何物かを求めようとしてこれらの意匠を軽蔑しようとしたのでは決してない。ただ、一つの意匠をあまり信用し過ぎない為に、寧ろあらゆる意匠を信用しようと努めたに過ぎない。
ーーーーーーーーーーーー

いきなりレトリックの嵐が、扉を開きにくくするのだが……
ーーーーーーーーーーーー
吾々にとって幸福な事か不幸なことか知らないが、世に一つとして簡単に片付く問題はない。遠い昔、人間が意識と共に与えられた言葉という吾々の思想の唯一の武器は、依然として昔乍らの魔術を止めない。劣悪を指嗾しない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない。而も、若し言葉がその人心幻惑の魔術を捨てたら恐らく影に過ぎまい。
ーーーーーーーーーーーー
冒頭からいきなり闊達な(闊達に過ぎる)レトリックが人を跳ね除けようとする(人によっては惹きつけられるのかもしれない。)のだが、おそらくは次のようなことを言っている(のだろうと無理やり解釈してみる。)

……言葉とは「何か」を了解し表現しようとする「精神の営み」(の蓄積)である。この「精神の営み」(の蓄積)は、人間の(明晰な)意識(活動)の前提となると同時に、人間が情状性のもとに「何か」を対象化することそのものを可能にしている。「このわたし」という一つの意識は、「言葉」をもって「主体的」に(「このわたし」という具体的に限定された場所から)世界とのかかわりをとらえ、表現しようとするのだが、「言葉」は(「このわたし」という場所を越えた)「世界の地平」を構成するもの(開示していくもの)自体としてもある。であるので、人は、「言葉」により(例えば「劣悪」「崇高」という言葉のもとに)何かを表現し、価値付けをしながら、常に「それ以上のもの」(そうした価値付けに収斂し得ない何か、そうして価値付け自体を促す「魔術」のような力)への感触を抱え込むことを運命づけられる。

そうした「言葉の魔術」に憑かれた行為が芸術(文学)であり、「言葉の魔術」に憑かれた自己を了解しようとする行為が「思想」「批評」の核にあるとするならば、それは常に「このわたし」という意識に対して無限の対象性を提示するもの、無尽蔵な可能性(=課題)をもつものである
ーーーーーーーーーーーー
(吾々にとって幸福な事か不幸なことか知らないが、世に一つとして簡単に片付く問題はない。)……
ーーーーーーーーーーーー

おそらく、この冒頭の一文は、小林自身の、「批評」という行為に対する「本質」直観を凝縮した言葉で語っている。同時に、ある客観的な世界観(マルクス主義)のもと、文学の役割を明解にとらえ、割り付けようとする時代の風潮に、「(文学・芸術という経験は)そんなに単純ではない。かつそんなに痩せた、つまらないものではない」ことを主張しようとするねらいも、あったのだろう。(全然なかったりして。)

まず作品に感応している自分という場所から始めること……

小林自身が、ボオドレエルの批評に「浚われてしまう」「魔術に憑かれてしまう」思いで引き込まれた経験をもつ。文芸批評の原点は(文芸批評をなすことの喜びは)、そのように「人を動かす」表現をすることにほかならない。そうした感動は、論理によって対象を整理する知的作業から生じるものではない。(詳細で綿密な「便覧」を作り、作品の外的特徴を整理することでは得られない。)作品に感応している自分、作品に揺さぶられている自分自身に向き合い、その様相をつかみとっていくことによって、はじめて可能となる。まず、「生き生きとした嗜好を有し、溌剌とした尺度をもつ」ことが第一歩となる。

内在的批評は独断ではない

そうした態度は、(独断的な)主観批評、印象批評として批判に晒されることがある。しかし、そもそも独断的にすぎない表現であるのならば、人の心をとらえることなどできない。自分(小林秀雄)が「ボオドレエル」の表現に感動するのはなぜか。それはボオドレエルがおのれの内をさぐる姿勢を一貫してとりながら、決して恣意的な嗜好、尺度のみではなく、読者である小林自身を共振させる「情熱の形式」を表出しているからではないか。内在に徹底することにより、知解に先行する「感受する身体の同形性」とでもよぶべきものを抉り出しているからではないか。「普遍性(をもつ価値)」という言葉が軽軽しい響きを持たないためには、こうした、「わたし」を掘り下げ「わたし」を突き抜けていく営為が前提となるのではないか。

(以下、小林秀雄自身の言葉を少し追ってみる)
ーーーーーーーーーーーー
「人は如何にして批評というものと自意識というものを区別し得よう。彼(ボオドレエル)の批評の魔力は、彼が批評するとは自覚する事である事を明瞭に悟った点に存する。批評の対象が己であると他人であるとは一つの事であって、二つのことでない。批評とは竟に己の夢を懐疑的に語ることではないのか」

「古来如何なる芸術家が普遍性などという怪物を狙ったか?彼らは例外なく個体を狙ったのである。あらゆる世にあらゆる場所に通ずる真実を語ろうと希ったのではない、ただ個々の真実を出来るだけ誠実に完全に語ろうと希っただけである。……文芸批評とても同じ事だ……最上の批評は常に最も個性的である。そして、独断的と個性的という概念とは異なるのである。」

ーーーーーーーーーーーー

(天才)の宿命を通して、時代精神は表現されていく

ある作品・思想が時代精神を物語ることはどのようにして可能となるか。人(批評家)はどのようなとき、一つの表現から、時代そのものの息吹を感じうるのか。それは、ひとりの作家・思想家(であることを宿命付けられたもの=天才)が、環境(時代)によって形づくられている自分自身のありようをとらえ、その了解を通じてふたたび環境(時代)に働きかけるということを、(それ自体が宿命である)自らの実存をもってなしえていることにあるのではないか。批評家としての小林は、そうした作家・思想家(天才)の実存をつぶさにとらえること(天才たちの「喜劇」を描くこと)をめざそうとする。
ーーーーーーーーーーーー
「環境は人を作り、人は環境を作る、斯く言わば弁証法的に統一された事実に、世の所謂宿命の真の意味があるとすれば、血球と共に循る一真実とはその人の宿命の異名である。或る人の真の性格といい、芸術家の独創性といい、又異なったものを指すのではないのである。この人間存在の厳然たる真実は、あらゆる最上芸術家は身を以って制作するという単純な強力な一理由によって、彼の作品に移入され、彼の作品の性格を拵えている。」

「時代意識は自意識より大きすぎもしなければ小さすぎもしないとは明瞭な事である。」
ーーーーーーーーーーーー
 

②様々なる意匠をめぐって

マルクス主義文学について

小林は「『プロレタリアの為に芸術せよ』という言葉を好かない」と同様、「『芸術の為に芸術せよ』」という言葉も好かない、という。「あらかじめ・外側に設定された目的」に向けて表現は為されているのではない。「芸術は、正しい社会を形成するという至上目的に、人を促すために資すべきだ」とする態度にしても、「芸術は何にも変えがたい崇高な精神的活動である」ととらえる姿勢にしても、超越的な価値を外部に設定し、そこに存在意義を見出そうとすることには何ら変わりがない。芸術にも目的がある。しかし芸術の目的、芸術のめざすところは「生活」(者としての自己のありよう、芸術家であるという自らの宿命のもとに表現をしているありようを把握すること)である。つまり目的は外側にあるのではなく、生活世界での自らの実存の様相を深く自己了解(し表現する)ことにある。そのことを通じて、自らの実存に生き生きとした感覚を吹き込んでいくことにある。表現する喜びそのものが芸術の存在理由となる。

小林は、「プロレタリアの観念学」(マルクスの思想)の価値そのものを否定するわけではない。「観念学」(思想)も芸術同様、ある実存(思想家)が一つの時代状況をおのれの「宿命」とともに「自己了解」し、表現したものであるとするなら、普遍的な価値をもつし、人を突き動かす強度をもつものとなる。マルクスの思想の本質は、「商品」という「物」が世を支配していく(つまり、「記号」が人間の価値世界を支配していく)時代状況の感触を、マルクス自身が己のうちにつぶさにとらえ、表現したことにある、と小林は考える。それゆえに、それは人を吸引し、動かしていく強さをもつのではないか。


ーーーーーーーーーーーー
凡そあらゆる観念学は人間の意識に決してその基礎を置くものではない。マルクスが言った様に、「意識とは意識された存在以外の何物でもあり得ない」のである。或る人の観念学は常にその人の全存在にかかっている。
ーーーーーーーーーーーー

卓れた芸術は、常に或る人のまなざしが心を貫くがごとき現実性を持っているものだ。人間を現実への情熱に導かないあらゆる表象の建築は便覧に過ぎない。人は便覧をもって右に曲がれば街へ出ると教えることは出来る。然し、坐った人間を立たせる事は出来ない。人は便覧によって動きはしない、事件によって動かされるのだ。強力な観念学は事件である。強力な芸術も亦事件である。
ーーーーーーーーーーーー

何等かの意味で宗教を持たぬ人間がない様に、芸術家で目的意識を持たぬものはないのである。目的がなければ生活の展開を規定するものがない。然し、目的を目指して進んでも目的は生活の把握であるから、目的は生活に帰ってくる。芸術家にとって目的意識とは、彼の創造の理論に外ならない。創造の理論とは、彼の宿命の理論以外の何物でもない。そして、芸術家等が各自各様の宿命の理論に忠実である事を如何ともしがたいのである。

ーーーーーーーーーーーー

写実主義」について

言語は、「実践的公共性」と「論理的公共性」の両面をもつ、と小林は言う。おそらく前者は、対象への感触そのものを言葉によって分節化しようとする(言葉が分節化しようとする)こと、後者は共有化された一般的価値のもと、対象をとらえていこうとする働きのことを意味するのではないか。人は、「実践的公共性」に「論理的公共性」を付加することによって(前者を後者に取り込んでいこうとする弁証法的な運動により?)「大人」となり、社会的関係を獲得していくものである。だが、詩人として表現を企てようとするとき、「論理的公共性」にとらわれず(日常的な意味世界のもとに回収し、解消しようとしている視点からではなく)、「対象そのものを前にした感触」(=実践的公共性)から出発することが前提となっている。

写実主義」は、そうした「対象そのもの」という経験にことさら重きをおいたものである。だが、小林にしてみればそれはあくまでも前提条件にすぎない。それだけでは十分ではない。知解能力を過信せずに対象に向き合えるということはなるほど必要だが、「対象そのものを写し取る」ことが芸術の目的とはいえない。「対象(自然)」そのものに価値があるのではない。「対象(自然)的な経験をしているわたし=人間」のありようを表現することから価値が生まれる。あくまでも「(対象に接した)わたしの感触・経験」に、より生き生きとした、より手ごたえを感じられる言語表現を与えようとめざす営為の積み重ね、実践こそが芸術の存在理由(芸術の喜び)である。

象徴主義」について

象徴主義」と目される作家は、明確な意味に収斂しない、多義性をもった言葉づかいによって、「あらかじめ対象化されている何か」を象徴的に表現することを意図したわけではない。音楽家が、「音」をもって表現することに、つまり「何か」を表わす「記号」ではなく、(表現する人の)情感を直接伝え、(表現を聞く人の)情感を直接震わせる「実質(的な存在)」である音をもって創作していることに倣いたい、「言葉」を音楽家の「音」のように用い、表現したいという志が「象徴主義」とよばれる作家たちの本意であった。そうして、「己の心境をできるだけ直接に、忠実に、映し出そう」と努めたのであった。その(意味作用からすると)「朦朧たる姿」をした「言葉」を、多義性をもって何かを間接的に表現している、「象徴している」ととらえ、解釈を施そうとする批評家は、作家たちの真意をとらえそこなっている。

新感覚派」「大衆文学」について

新感覚派」は積極的な理由からではなく、観念の崩壊から生まれている、と小林はとらえる。マルクス主義の思想(「観念」)に席巻され、文学(というか文壇だろうが)の側がそれに対抗しうる思想を形成しえていない。そのことが、(自己了解、自己への洞察から逃走するように)やおら形式的(技巧的)な表現に走る傾向を生んでいる。「人の心を動かさない」そうした表現を、小林はかなり否定的にとらえている。

逆に「大衆文学」には文学の可能性をみとっている。わざわざ「文字を読む」という煩雑(にも思える)行為を媒介とせずにも楽しめる(映画などの)娯楽ができているというのに、「大衆文学」が熱中して読まれているという事実は、人がいかに「文学的錯覚」離れ得ないものだということを物語っている、ととらえ(反語的にではあるが)評価しているようだ。