■■俊介「最後の一年」

「最後の一年」(改題)つづき

引き揚げていった。

「エ~、なんで俺が残らなくちゃいけないんだ」と内心思いながら男と向き合うことになった。

向き合っても話すことはない。沈黙したまま、男を見ていると相手もこちらを睨んだまま無言である。堪りかねて「行く所ないの」と聞く。男は今まで何を聞いていたんだという顔をして「行くところがないから来たんだろ」とぶっきらぼうに答える。それもそうだと思い、こちらも黙る。

男は歩道にぺたりと座り込んでいる。こちらはウンチングスタイルで男と向き合っている。初夏の日差しがジリジリと照り付ける。母親に手を引かれた二、三歳くらいの男の子が二人を不思議そうに見ながら通り過ぎる。通り過ぎてからも体をねじってこちらを見ている。腹も減ってくる。じりじりと日に照らされる。俺は何をやっているんだという気持ちになる。

この場をどう切り抜けるか、解決法を考えるがうまい方法が浮かばない。半開きの男のカバンが見える。茶色の箱入りの本が見える。箱入りの本を見るのは大学時代以来である。

男が「コーヒーを飲みたい」と言い出した。

「線路に飛び込もうという者が何を言うか」と口に出かかったが刺激しないほうが良いと思い

「庁舎の地下食堂にあるよ」と答える。

「そういうところのコーヒーは不味いでしょう、もっと専門店のようなところはないの」

「ないね」とぶっきらぼうに答える。腹が減ってイライラしてくる。男は人の気も知らないで、しつっこく駅の近くに行けばあるのではないかと聞いてくる。やむなく

「駅のほうに行けばあるよ」と答えると

「何という名前」と重ねて聞いてくる。

「えーッとね」と言いながらつられて答えそうになる。思い直して

「あのね、駅まで遠いよ、歩くと三十分」

男はしばし沈黙していたが、

「案内してくれない」と言い出した。どういう神経をしているんだと思いながら

「あのね、今勤務中なの、行けるわけないだろ」と答える。

「じゃぁ、飛び込むか」と男は腰を浮かす。慌てて

「待ってよ、早まんないで」と声をかける。

電車が踏切に近づいていて来た。

突然男が立ち上がり動き出した。

「早まるな」言いながらとっさに男にしがみつく。

男が倒れざまに足の踵で私の顎を蹴り上げる形になった。眼鏡が飛び、私も倒れこんでしまった。

電車が踏切を通り過ぎた。

私は起き上がりながらズボンを見たら膝のところがすれているのに気が付いた。

「この間買ったばかりなのになんてこった、公務災害で補償してくれないかな、するわけないな」と思いつつ眼鏡を拾った。幸いメガネは壊れていなかった。

男は服を払いながら「早まるな」とつぶやいた。

頭に血が上ってきた。

「あんたが飛び込もうとしたんじゃないか、だから私は止めたんだ」

「足が痺れてきたから立ち上がっただけだ」

しばらく睨みあう形で立っていたが、男はまた座り込んでしまった。

庁舎からは誰も来る気配がない。

私もあきらめて腰を据えた。

こうなったらじっくり取り組むしかない。ここに来たいきさつを聞いてみる。まず落ち着かせることだ。ここの福祉は申請するとほとんど認めてくれると聞いてきたとのこと。うちの福祉もなめられたものだと思いながら

「さっき福祉の係長に断られたじゃないか」と言うと係長をののしり始めた。何も知らないくせに福祉の係長をやっているとんでもない奴だと滔々としゃべる。意外と論理的である。

「何やってたの」と聞くと一瞬、言い出しそうになったが、口をつぐんだ。

「親とか兄弟とか連絡できる身内はいないの」と聞くと視線を遠くに向けて、ぽつりと

「今まで迷惑かけてきたから連絡できない」と答える。

「兄弟は何をやっているの」と聞く。

暫し沈黙していたが「一人は官庁、一人は大学」と言う。

「どこの役所」と聞くと「大蔵省」と答える。

「大学は」と聞くと「東大」と答える。

話し方と言い、兄弟の仕事と言い、茶色の箱入りの本と言い、とんでもないエリートだ。エリートと言うより正確にはエリート崩れか。

体つきも筋肉もりもりと言うタイプではない。こういうタイプは暴力をふるうことはないだろうと一安心する。半面、こういうタイプは理屈っぽいだろうと推測していると彼のほうから話しかけてきた。

「あなた名前ははなんて言うの」

「川端です」

「ずーとここに努めているの」

「まぁそうですね」

「楽しいの」

「どういう意味ですか」

「役所の仕事を長年、コツコツやってきたんだ、偉いね」

「あなたに褒めてもらわなくてもいい」と言いかけて飲み込んだ。相手の土俵に乗ることはない。それよりも早くこの状況をどうにかしなくてはいけない。日差しは暑く、腹は減るし、だれも助けに来ない。

沈黙が続く。

「不思議だよね」

「ハッ、なにが」

「目の前を蟻が列をなしているのに音が聞こえない」

来た来た、精神を病んでいる人の話し方だ。黙っていると

「ねえ、不思議だと思わない」と問いかけてくる。

「別に」まともに相手をしていると疲れる。

「だってさ、人間の行進の時にはすごい音がするじゃない」

「人間と蟻では大きさが違う」と言いそうになって口を閉ざした。

相手に合わせているときりがない。

「人間の聴覚や嗅覚つて動物よりも劣るね、ホントは蟻の行進は凄い音がしているけど人間の聴覚の範囲では聞き取れないんだ、もし聴き取れたらうるさくてノイローゼになる」

「ノイローゼはあんただろ」と思うが言わない。

役所の職員が障害者を差別したと言いかねない。

男はデシベルがどうとか高音領域の聴覚がどうのとか言っているが黙っている。「沈黙は金」という言葉が頭に浮かぶ。

何とかしなくてはと思うがいい方法が浮かばない。

線路際に花が一本咲いている。

「花びらって自動的に開くよね」

「昔アラビアンナイトで『開けゴマ』と言うのがあったけど、あれって自動扉の原理だよね。花が開くのも自動扉と同じだよね」

そう言われればそうかもしれない。納得しそうになってハッとした。それどころではない。腕時計を見るともう午後一時を過ぎている。午後の仕事が始まっている。庁舎のほうを見ると誰かが出てくる。

うちの課の職員だ。「来るのが遅いんだよ」と思いつつホッとする。近づいてきて

「まだいるんですか」と暢気なことを聞いてくる。

私は一瞬むっとして「まだいるんだよ」と言う。

職員は「どうしましようか」言う。

私は「どうにかしていたら今までこうしていないよ」と言いそうになる。

沈黙が三人を包む。

男が「じゃー、行くか」と突然立ち上がった。

私は「飛び込むなよ」と声をかける。

男は「ここでは飛び込まないよ」と言う。

私は内心、市内で飛び込まないで隣の市に行ってからにしてくれと思いつつ「もう飛び込むなんて馬鹿なことは考えないほうがいい」と言いながら見送った。

男は線路沿いに隣の市のほうに歩いて行った。

課に帰るとみんな明るい顔で「ご苦労様、ああいうタイプは川端さんでないと収まんないね」とお世辞を言う。

私は地下食堂に行って遅い昼食をとった。こういう時はメニューを選んでいる余裕はない、早いものと言えばカレーだが、コックが変わってから味が変わって、うまくない。この頃食べないようにしている。どうしようか迷った。贅沢を言ってられない。とにかく腹が減った。結局カレーにした。サービスにみそ汁をつけてくれた。

「コーヒーにしてくれないかな」と一瞬言いそうになったが、「ああいうところのコーヒーは不味いでしょう」と言うあの男の言葉を思い出してやめた。

食べ終わって午後のひと眠りをしょうと思って休憩室に行ったら昼当番に当たった連中がすでに昼食を終えて休憩室いっぱいに横になっている。入る隙間がない。やむなく午後の一睡はやめて、仕事に戻った。午前中にあの男のために中断された仕事の残りをやる。やり始めてすぐ眠くなってきた。午後二時半。一日のうちで一番眠くなる時間だ。これから五時まで我慢との戦いだ。おもえば四十年間この戦いをよくやってきたものだ。「人生は重き荷を背負って遠き道を行くべし、急ぐべからず」徳川家康を思い出した。別に急いでないけど眠気が襲ってくる。こういう時は動くに限る。ほかの部署に市民からの問い合わせ文書を配布しながら前に渡した市民からの問い合わせがどうなっているか、確認することにした。

議会事務局に回ったら事務室に議長がいた。私の顔を見るなり「おい、コーヒーを飲んで行けよ」と声をかけてきた。事務局の職員に「コーヒーを議長室に二つ持ってきてくれ」と命令している。職員たちは戸惑って、迷惑そうな顔をしている。議長のお客さんにお茶を出すのはいいが、職員には出さないと決めている。議長はさっさと自分の部屋に入っていく。職員たちのどうしようかという雰囲気を察して、事務局長が「川端さんの分も持って行け」と言う。

議長の部屋に入いる私の背中に視線が飛び刺さ刺さる。「俺のせいじゃない」と思いつつ議長の部屋に入る。

以前、酔っぱらった市民が市役所に電話してきた。納税課の職員が自宅に滞納額を徴収に来たことの文句の電話だった。「なんでわざわざ家まで来るんだ」と言う。「ほとんどの市民の皆さんは納期までにきちんと納付してくれます。市のほうも行きたくはないんですが、何度催告書を出しても税金の納付がない場合にはいかざるを得ないんですよ」と低姿勢で丁寧に説明をする。納得しない。だんだん興奮して「バカヤロー」と叫びだした。面倒くさくなってきた。「私はバカヤローと言う人は市民とは見做さないので、電話を切ります」。

ガチャリと電話を切ったらカウンターの目の前に議長が立っていた。「ヤバイ、聞かれたかな」と思ったら議長が慌てて立ち去った。それ以来、議長はイヤに私に親しげに近づいてくる。ある日、ある議員から言われた。「市民相談にはとんでもない職員がいる、川端には気をつけろ、と議長が言っていた。何があったんだ」と。

議長室でコーヒーを飲んだら眠気も覚めた。議長は「川端君、今度ボクシングの試合をいっしょに見に行こう、チケットがあるから」と言った。政治家の今度はあてにならない。

なんとか五時まで乗り切った。こういう日は焼き鳥屋で一日の汚れをきれいさっぱり忘れて帰らなくてはならない。

験直しが効いたのか穏やかな日が続いた。午後はやはり眠くなる。カウンターの向こうから「川端さん」と声がした。ハッとしてカウンターのほうをみるとあの男が立っていた。この前と同じ格好だ。紙袋を持って「話がある」と手招きしている。どうしようか、「俺は話がないけど」と一瞬迷ったが、結局立ち上がった。

男は「話したいことがある」というので、「何ですかとカウンターに立ちながら聞くと「どこか座って話せるところはないの、相談室とか」と言う。長居をされてたまるかと思い「ないよ」と答えようとした時、親切にも後ろの席から「相談室空いてるよ」と声をかけてきた。

「もうなんて余計なことをするの」と声の女性職員に目配せするが親切をしたと勘違いしているのかニコニコしている。男は「どこ」と言いながら、先になって相談室のほうに行く。眠気が怒気に変わる。仏頂面して椅子に座る。

男はいかに先日の福祉の対応がひどいか話し始める。ほかの市役所でも断られてまた舞い戻ってきたのかと思いながら黙って聞いている。男が一通り話し終わり、黙り込んだので「先日福祉の係長に断られたじゃない、私に言っても無駄だよ、福祉に行って話すしかない」と引導を渡す。相手もひるまない。「福祉は話が分かんないからここで話してるじゃないか、ここは市民の相談を受けるところだろ、君は自分の仕事をきちんとしなくてはいけない」「相談を受けることはできるよ、だけど具体的なことになると行政は範囲が広いからそれぞれの専門部署に頼むしかないの」と言葉の応酬が続く。

ひとしきり言い合ってお互い沈黙する。

男が口を開いた。

「君は僕をおかしい奴だと思っているだろう。こういう人とは早く話を打ち切りたいと思っているだろう」

僕をうかがうようにじっと見つめる。

「いや、そんなことはありません」と役所的答弁をする。

「いや、君は変なのが来て困っていると思うよ」

私は内心わかっているじゃないか、その通り、早く帰ってくれと思うが黙っている。

「君は何をもって変な奴とそうじゃない人を判断するんだ」

うんざりした。なぜ私がそんなことを答えなければいけないのだ。早く切り上げたい。

「君はもう終わらせたいと思っているだろう」

わかっているじゃないかねと私は思う。もう帰ってくれ。進展のない話を続けるだけだ。

「この人間社会で誰が正常で誰が異常かなんて誰も判断できない、君は役所に勤めていて、我々のすることが正常だ、社会の基準だと思っているが果たして