■■明子『 父の物語(5)』

父の物語(五)

            ■■明子

 

私は、休日の朝は、目覚ましをかけずに寝たいだけ寝ることにしている。カーテンを開けるといい天気だ。机の上に目をやると、父の古びたノートの束が、早く読んでくれというように積みあがっている。そうだ、これを読まなければ・・・。

 

父のノートにはこう書かれてあった。

『これから日本を左右できる、またしてくれなくては困る世代へ願いを伝えたかった。』

今、父の思いはかなっているだろうか。テレビをつけると、、防衛費の増大、安保法の制定、憲法九条の問題について、政治家たちはカラスが餌に群がるように、大声で喋っている。私は、テレビを消した。

 

父は大正生まれである。

『今から五十年前、僕が二十歳の頃、「日独伊防衛協定の大講演会」を血気溢れて聴きに行ったことを思い出して、自分の生涯の中に時代の激動をしみじみ感じた。』

第二次世界大戦の始まる一年前のことだ。父も日本男児として、お国のためと、普通に思っていたと思う。そして、戦争に狩りだされ、敗戦後、ソ連の侵攻により、満州からシベリアへ捕虜として、抑留された。

 

『収容所の中でも、戦時中と同じように、旧軍隊の階級が生きていて、平気であごで使われ、食事も公平に分配されなかった。人として扱われず、ソ連もそれを黙認し利用した。』

食事も満足にできず、極寒、ノルマによる重労働では、頑健な者でも、身体が持つはずがない。

 

『そんな状態がしばらく続いた後、それが理不尽だということに気付いた者も多く、不満がつのった。昭和二十一年ごろから、ソ連側が日本を共産主義化させる目的と、日本の捕虜たち自身の現状への不満があいまって、いわゆる民主運動が始まった。日本新聞なるものが配られ、民主運動もその流れで広まっていった。「万国の労働者よ、団結せよ」といった横断幕を掲げた集会も開かれた。』

敗戦まで、軍国主義一辺倒で生きてきた人間が、ためらいもなく、共産主義礼賛に変われるだろうか。

『どうであろうと、内地に帰りたかった。敷居をまたいで、「ただいま」と言いたかった。こんなところで死んでたまるか、という思いだった。積極的に活動した人間から帰国できるという噂が流れた。僕も民主教育に同調しているように見せた。皆そうだった。』

もし、私がその場にいたらどうだろうか。自分だけ参加しないことはできないだろう。一日も早く帰国すること、それが唯一の願いだったのだから。

 

ソ連共産主義に染まっていない者を取り囲み、罵声を浴びせるところも目撃した。』

人間は追い詰められれば、なんでもするのかもしれない。

そんなことをしてまでも、生きて日本の地を踏みたかった若者たちがいた。

 

これらは、戦後に生まれて育った私たちとそしてその子孫が史実として、知っておかなければならないことなのだ。

 

父とはそんな話をしたことはなかった。父とお酒でも飲みながら、そんな話を聞きたかった。父は何を語っただろう。

 

私は、父の声を今、この赤茶けたノートから聴いている。

 

父のうの物語(五)

                 市川 明子

 

私は、休日の朝は、目覚ましをかけずに寝たいだけ寝ることにしている。カーテンを開けるといい天気だ。机の上に目をやると、父の古びたノートの束が、早く読んでくれというように積みあがっている。そうだ、これを読まなければ・・・。

 

父のノートにはこう書かれてあった。

『これから日本を左右できる、またしてくれなくては困る世代へ願いを伝えたかった。』

今、父の思いはかなっているだろうか。テレビをつけると、、防衛費の増大、安保法の制定、憲法九条の問題について、政治家たちはカラスが餌に群がるように、大声で喋っている。私は、テレビを消した。

 

父は大正生まれである。

『今から五十年前、僕が二十歳の頃、「日独伊防衛協定の大講演会」を血気溢れて聴きに行ったことを思い出して、自分の生涯の中に時代の激動をしみじみ感じた。』

第二次世界大戦の始まる一年前のことだ。父も日本男児として、お国のためと、普通に思っていたと思う。そして、戦争に狩りだされ、敗戦後、ソ連の侵攻により、満州からシベリアへ捕虜として、抑留された。

 

『収容所の中でも、戦時中と同じように、旧軍隊の階級が生きていて、平気であごで使われ、食事も公平に分配されなかった。人として扱われず、ソ連もそれを黙認し利用した。』

食事も満足にできず、極寒、ノルマによる重労働では、頑健な者でも、身体が持つはずがない。

 

『そんな状態がしばらく続いた後、それが理不尽だということに気付いた者も多く、不満がつのった。昭和二十一年ごろから、ソ連側が日本を共産主義化させる目的と、日本の捕虜たち自身の現状への不満があいまって、いわゆる民主運動が始まった。日本新聞なるものが配られ、民主運動もその流れで広まっていった。「万国の労働者よ、団結せよ」といった横断幕を掲げた集会も開かれた。』

敗戦まで、軍国主義一辺倒で生きてきた人間が、ためらいもなく、共産主義礼賛に変われるだろうか。

『どうであろうと、内地に帰りたかった。敷居をまたいで、「ただいま」と言いたかった。こんなところで死んでたまるか、という思いだった。積極的に活動した人間から帰国できるという噂が流れた。僕も民主教育に同調しているように見せた。皆そうだった。』

もし、私がその場にいたらどうだろうか。自分だけ参加しないことはできないだろう。一日も早く帰国すること、それが唯一の願いだったのだから。

 

ソ連共産主義に染まっていない者を取り囲み、罵声を浴びせるところも目撃した。』

人間は追い詰められれば、なんでもするのかもしれない。

そんなことをしてまでも、生きて日本の地を踏みたかった若者たちがいた。

 

これらは、戦後に生まれて育った私たちとそしてその子孫が史実として、知っておかなければならないことなのだ。

 

父とはそんな話をしたことはなかった。父とお酒でも飲みながら、そんな話を聞きたかった。父は何を語っただろう。

 

私は、父の声を今、この赤茶けたノートから聴いている。