■■雄文『玲子のひと夏の冒険』

『玲子のひと夏の冒険

玲子が、築二十年のアパートに帰ってまず行うことは机の上のパソコンの電源スイッチを入れることだ。
パソコンが立ち上がるまでの間に、通勤に使った服を脱ぎ、室内着に着替える。
そして、おもむろに机の前に進み、椅子に座る。
これから、ほぼ一時間、パソコンに向かう。
食事や風呂は、その後だ。

玲子は、いつものように、「奈落の壺」というブログを訪問した。

皆さん、こんにちは。
お元気ですか?
壺は、今日もフツーです。

ところで、先日、こんな事件がありました。
朝、会社に行くと、隣の席のB君が、出社していません。彼は私より先に会社に着き、朝刊を読んでいるのが常でした。
始業時間を過ぎ、周りの社員に聞くと、彼からの連絡を誰も受けていません。
女子社員の一人に彼の携帯に電話して、様子を確認することを指示しました。
ほどなく、彼女が報告してくれました。
「Bさんは、会社を辞めると言ってます」
「はあ?」
「・・・」
「田辺さん、彼と直接、話がしたい。もう一度、電話を入れてください」
と、女子社員に依頼しました。

少しすると、おそらく彼女のものだと思われる携帯電話を差し出してくれました。

「おう、Bクンか」
「おはようございます」
「どうした?」
「田辺さんに言ったように、私は会社を辞めます」
「なんだって? いきなり・・・」
「事前連絡もしないで失礼しました」
「で、理由はなんなんだ?」
「理由なんてありません」
「理由があるから辞めるんだろう?」
「いろいろ、お世話になりました。ありがとうございました」
B君は一方的に電話を切りました。

私の職場には八名ほどの社員が狭い執務室で仕事をしていますが、B君は一年前の新入社員です。
溌剌とした態度で、仕事も指示通りにこなすナイスガイです。
最近の若者の特徴か、たまに切れることがありましたが・・・。

B君が理由もなく、辞めたいって・・・。
なんでだ?
俺の接し方が悪かったのか?
どうして?
あの時の私の指導が厳しすぎたのかしらん? 

たぶん、職場の誰もがこんなことを考えたのでしょう、その後、数時間、職場の空気は冷え切ってしまいました。

今の若者の気持ちは良くわかりません。
といっても、壺も十数年前までは、彼と同じ年頃でしたが・・・。
どう理解したら良いのか。
今後、同様の者が出ないように、職場の仲間がどのように反省し、課題として取り組んでいれば良いのか、今は分からないままです。
ちょいと悩んでいる、この頃の壺です。

読み終わり、玲子はコメントを書き入れた。

壺さん

こんにちわ。
B君のような若者の心を十分に理解することは難しいことだと思います。
たぶん、彼なりの就職観があって、それと壺さんの会社や仲間とがマッチングしていないと思ったのでは?
彼は、彼なりに自分にフィットする会社や職場を見つけていくと思います。
だから、B君が辞めたのは、壺さんの職場の問題ではなく、言ってみれば相性だと思います。
悩まず、明日からもフツーで行きましょう。
玲子より

コメントを発信すると、玲子は風呂に入り、簡単な夕食を済ませた。

そして、また、パソコンの前に座り、先ほどのブログを開いた。
思った通り、返信が入っていた。

玲子さん

コメントありがとうございます。
玲子さんの助言で心が軽くなりました。
お互い、人間ですから相性もありますよね。
明日からも、フツーで頑張ります。
壺より

玲子は返信を読み、パソコンの電源を切った。

――――――――――――――――――

玲子が壺のブログを読み始めてから一年が過ぎた。
最初は読むだけであったが、少しすると、コメントを発信し、感想や意見を寄せた。
壺も必ず返信をくれた。
壺の記事更新は、ほぼ毎日だったから、そんなやり取りが、いつしか玲子の日常の中に括り入れられ、唯一の愉しみとなっていた。

玲子は、壺が誰だかは知らない。
しかし、彼のブログを読む内に、三十代の独身男性だろうと思った。
自宅と職場は東京。
職場では課長の下の係長クラスか。
付き合っている女性は、少なくも記事には出てこない。

玲子は、小さな商事会社に勤め、朝九時から定時の五時三十分まで一般事務に従事していた。
仕事は大変ではないが、退屈でもなかった。三十代後半の女が、そこそこの独身生活を過ごせる給料は得られるので、不満は口にしなかった。
平日はアパートと会社の往復だけで、休みはアパートの狭い部屋で読書やテレビを見て過ごした。
付き合っている彼はいないし、同性の友達もほとんどいない。

玲子のこんな日常に変化が押し寄せた。
壺の記事更新が止まったのだ。
部下の退職の記事を最後に、壺からの発信はなくなった。

一週間後、玲子は、最後の記事に再度コメントを寄せた。

壺さん

お元気ですか。
フツーの毎日を送っていますか?
なにか、ありましたか?
また、ブログを書いてください。
愉しみにしてます。
玲子

しかし、返信は来なかった。

更新されなくなって、玲子は、帰宅後、やることがなくなり、パソコンを前にして無為な時間を過ごすようになった。
しかし、心は穏やかではない。
もしかすると、退職した若い男との間に問題が発生し、記事を更新できないような事情が出来たのか。
若い男の自宅に面談に出かけ、トラブルとなり、怪我でもしたのではないか。
或いは、男が社内情報を漏洩し、上司として責任を取らされたのか。
想像の矛先は切りがなかった。

こんな日々が二週間ほど続いた、とある金曜日の夜。
この時も、パソコンの前でぼーとした時間を過ごしていたが、突然、玲子は決心した。
「壺さんを探そう」

たぶん、壺さんになにかあったはず。
壺さんを探し出し、その原因を取り除く手伝いをすべきだ。
玲子は強く思い、無事を念じ、すぐに行動に移した。

翌日の土曜日、玲子は、まず、彼の住所を探し出すことにした。
彼のブログの記事と写真から、住所を示す断片を見つけようとしたが、なにもなかった。
かれこれ十年前から立ち上げたブログで、なおかつ、壺はかなり頻繁に更新していたので、この作業を終えたとき、陽が沈みかけていた。
しかし、玲子はめげることなく、記事だけではなく、コメント欄もすべて読み込んでみた。
すると、少し前のブログにこんなやり取りを見つけた。

壺さん

先日、花火大会の記事をアップされていましたが、壺さんのお宅近くでは、夏の間、毎週土曜日に花火大会が開催されるのですね。
小野寺駅に近い私の家からも、それが見えます。
近所のようです(笑)。
私も同じ日の花火の写真をアップしたので、見てください。
またよろしく。
浜次郎

浜次郎というペンネームには、リンクが張ってあって、すぐに彼のブログは見つかった。
玲子は、そのブログの中から花火の記事を検索し、見つけた。
低いマンションの向こうに花火が打ち上げられている写真が載っていて、記事が書かれていた。

近所の花火大会に感じる夏!

昨晩、自宅から見えた花火の写真です。
家の前のマンションの向こうに大輪が見えました。
近くの遊園地で打ち上げるので、大きな音と同時に花火が見えます。
毎週、土曜日に打ち上げられますが、予算が厳しいのか、ここ数年、花火の数はあまり多くありません(泣)。
しかし、そんなでも、夏を強く感じさせてくれます。

壺の記事の方も見てみたが、花火のみが大写しになっていて、記事にも参考になる情報は書いてなかった。

玲子は、コメントに書かれた小野寺駅をパソコンで検索した。
東京の多摩地区を走る私鉄の駅だった。
玲子のアパートの最寄りの駅からは一時間程度離れている。
「明日の朝、この駅に行こう」

日曜日、玲子は、小野寺駅に向かった。
南部鉄道の木造の古い駅だった。
北口と南口があったが、栄えていそうな北口に降り立った。
初夏を迎え、曇り一つない青空で、気温が高い。
ハンカチで額の汗を拭いた。

玲子は、駅舎で駅員に尋ねてみた。
「この辺で、毎週土曜日に花火大会を開催しているのは、どこですか?」
「ああ、南部園という遊園地で打ち上げてますよ」
「南部園というのは、ここから遠いのですか?」
「一つ先の駅です」
「ここからは、どの方向になりますか?」
「あの茶色のマンションの方向です」
「ありがとうございます」

茶色のマンションは八階建であるが、低層の家が目立つ駅前では、かなりの存在感を示していた。
しかし、浜次郎のブログの花火の写真に写っているマンションは、白だ、そのマンションとは違う。

玲子は、駅舎から少し歩を進め、駅前のロータリーでそのぐるりを見てみた。
「なんてこと!」
茶色いマンションと逆側に、白いマンションが建っていた。
三階建ての低い建物だっだ。
「すると、浜次郎さんの自宅は、あのマンションの裏手にあるはず・・・」
玲子は、ドキドキしている自分を感じていた。

浜次郎のブログに写っている写真をスマートフォンの画面に映したまま、白いマンションの周りを歩いてみた。
写真にはマンションの向こうに花火が写っている。
このショットが撮影可能な位置に立つ家が浜次郎の家のはず・・・。
すると、思ったより、簡単に浜次郎の家を探し出すことができた。
表札には、丹羽修とあった。
ブログのペンネームとはまったく関連がないようだ。

しかし、本当に探し出したい壺の家は分からない。
どうしたものか・・・。

玲子は浜次郎の家を後にし、歩き始めたが、途方にくれた。
小野寺駅が見えた頃、玲子は閃いた。
歩みを止め、振り返るや否や、小走りになった。
浜次郎の家に辿り着くと、ドアホンのボタンを押した。
これから、どういう展開が待っているのか、玲子自身、想像がつかなかった。

「はい・・・。どちら様ですか」
ドアホンから男の声が聞こえた。浜次郎だろうか。
「・・・」
玲子自身が選んだ方法であったが、なんて答えれば良いのか分からず、押し黙ってしまった。
「どちら様ですか?」
男は少し語気を強めて聞いてくる。
「あの、お尋ねしたいことがありまして・・・」

男はやはり浜次郎だった。
気難しいそうな顔つきをした中年の男だった。
しかし、気が良く、玲子の話を聞いてくれ、情報も貰えた。
壺の自宅の住所を知っているという。
ブログのコメントをやり取りするうちに、メール交換を行うようになり、お互いの住所を交換したとのことだった。
浜次郎は、壺の本名と住所をメモしてくれ、玲子に渡した。

岡田修 
××市××町×丁×番地

浜次郎に礼を言った後、早速、その住所に向かった。
それは小野寺駅の南口だった。
携帯のアプリに住所を入れ、アプリの示す地図を見ながら、歩いた。
相変わらず、陽が強く、汗が噴き出る。
しかし、玲子は汗を拭くことなく、夢中で歩いた。
壺の家は、駅から十五分ほど歩いたところにあった。

小ぶりな建て売りのようだ。
壺とその両親が住んでいるのか。

玲子は、また勇気を振り絞って、ドアホンのボタンを押した。
屋内でチャイムが鳴った。
しかし、返答はない。
壺の家をやっと見つけられた、壺とはどんな人物なのか、更には無事なのか、気がせいた玲子は何度もボタンを押した。
しかし、沈黙が続き、誰も出ない。
「留守かしら」
玲子は壺の家の玄関の周りをぐるりと見た。
ゴミはなく、掃除は行き届いているようだった。
玲子はしかたなく、自宅に戻った。

それから一週間、壺のブログは相変わらず更新されないままだった。
次の日曜日、玲子は、再度、壺の家を訪問した。
この日は薄曇りだったが、汗がうっすら浮かんで来た。
前回と同様にドアホンのボタンを押してみたが、この日も返答がない。
彼女は、家の裏手に回って、庭の様子を見た。
花が植えられているでもなく、池があるでもない、低木が何本か植えられていた。
女の気配が感じられない庭・・・。
玲子は、その日も壺に会うことは出来ず、失意のままアパートに帰った。

翌週の日曜日も玲子は壺の家の前に立った。
この日は夏日で猛烈に暑かった。
吹き出る額の汗をハンカチで拭った後、いつものように、ドアホンのボタンを押した。
やはり返答がないなと思った時、玲子は背後に人の気配を感じた。
「壺さん・・・」
振り返ると、しかし、立っていたのは中年のカップルだった。

「小野寺警察の生活安全課の者です」
「はあ?」
「戸田玲子さんですね」
「そうですが・・・」
「ストーカー規制法に基づき、あなたに警告します」
「はあ?」
「被害者である岡田修さんからのストーカー被害の申告に基づき、あなたに警告します」
「・・・」
「今後、岡田さんの住居に押し掛けたり、住居の付近をみだりにうろつくことを禁じます。」

――――――――――――――――――

岡田修、いや、壺はその日、久しぶりにブログをアップした。

皆さん、こんちわ。
お元気ですが?
壺は、今日もフツーです。

最近、例の若手が辞めた後、仕事が忙しくなり、ブログをほったらかしにしてました(笑)。

ところで、最近、こんな事件がありました。
先々週の日曜日に、ある女が壺の家を尋ねてきました。
私は読書をしていましたが、チャイムが鳴ったので、ドアホンのディスプレイを覗きました。
三十代後半と思われる女が写っていました。
宅急便とかヤクルトおばさんのような雰囲気はありませんし、無論、近所の方でもありません。
知らない女です。
用事はなんなのか、対応しようとしたのですが、女は続けざまにチャイムを鳴らしました。
その後も、ボタンを押し続け、こちらに声を出すタイミングを与えてくれません。
普通、一度鳴らして出なかったら、間を空けて、押すとしてもあと一回くらいじゃないですか。
それが、しつこくて病的で、怖くなりました。
しかし、五度ほど繰り返すと、あきらめたのか、女は去っていきました。

はじめは訪問すべき家を間違ったのかと思いましたが、次の日曜日にも全く同じことが起きました。
この日も女はチャイムを鳴らし続けました。
ドアホンのディスプレイでその女の顔を改めて見ましたが、目が死んで表情が抜け落ち、思い詰めた顔付でした。
少しすると、女が画面から消えました。
帰ったのかと思ったら、庭からこっちをチラチラ覗いているじゃないですか。
もう、怖くて・・・。
これまで、そんな経験はありませんが、たぶんストーカーです。
少し大げさかと思いましたが、その日の夕方、近くの警察に電話をしました。
詳しく事情を聞きたいというので、警察に赴き、経緯を話しました。
結局はストーカー事案として取り扱ってもらい、壺宅の近辺を重点的にパトロールをしてくれることになりました。

それから一週間後の今日、その女がまたまた訪ねてきました。
しかし、この日は、パトロール中だった警察の方から女に対し、ストーカー規制法に基づく警告をしてもらいました。
結局、女が誰なのかは聞きませんでしたが、もう訪ねてこないことを祈るばかりです。
最も今度来たら、規制法違反で逮捕されるはずです。
ここ数週間、良く眠れない日々が続きましたが、今夜は熟睡できそうです。
皆さんもお気をつけて。

――――――――――――――――――

玲子は、岡田の家から少し離れたところに駐車していたパトカーの中に連れられていった。
後部座席に座らせられ、隣に座った警官から、氏名や住所等を聞かれ、岡田宅を二度と訪問しないことを改めて誓わされた。
岡田との関係、尋ねて来た理由等を聞かれたが、明確には答えなかった。

壺さんが被害者って、どういうこと?
私が何をしたの?
壺さんのことを心配して、尋ねて来ただけなのに。
心配だからこそ、チャイムを鳴らしたのに。
壺さんからの申告なんて、なんかの間違いだわ。
思い違いや勘違いがあるはず。
壺さんが被害者ってことは、私は加害者なの?
何度か訪ねただけなのに。

玲子は、そんなループする思いのまま、電車に乗り、夜遅くアパートに帰った。

疲れ切り、足を引きづりながら部屋に入った。
しかし、条件反射のように、いつものようにパソコンのスイッチを入れた。
(了)