福沢諭吉「丁丑公論」

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小林秀雄ベルグソンマルクス
ー『 感想(ベルグソン論 )』を読む。
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理論的思考や体系的思考は、理路整然としていて、優れた思考のように見える。逆に、理論や体系を批判し、自由に思考を展開しようとすると、未熟な、いい加減な思考のように見える。マルクス主義という理論的思考や体系的思考を、激しく批判する小林秀雄の文壇や論壇への登場は、まさしく、そう見えただろう。当時も今も、小林秀雄を歯牙にもかけないという人は少なくない。文章やレトリックは上手いかもしれないが、思想や哲学のレベルでは、相手にするだけの能力ではない、と。私は、廣松渉が『 近代の超克』で、小林秀雄等の座談会を、「文士たちのお喋り 」として軽く扱っているのを読んで、小林秀雄という存在の恐ろしさが分かっていないことに驚いたことがある。廣松渉にしてそうなのだから、他は推して知るべし、と。廣松渉は戦後の日本で、飛び抜けた思想家であり、マルクス主義哲学者だった。単なる、左翼のイデオローグではなかった。マルクス主義研究に、「 疎外論から物象化論へ」というよな、新しい地平を切り開いた哲学者だった。しかし、そういう廣松渉が、小林秀雄の思考力についてまったく無知であるということが分かった時、逆に私は、小林秀雄の偉大さが、あらためて分かった。廣松渉には、「マルクスマルクス主義の差異」が分かっていない。廣松渉は、マルクスの問題を、マルクス主義のレベルでしか理解出来ていない。つまり、思考力の問題より、理論や体系の問題が大事なのだ。過激な思考力があった上での理論や体系のはずだが、それが分かっていない。私は、小林秀雄の強靭な思考力を認めるように、廣松渉の強靭な思考力を認める。しかし、小林秀雄が「強靭な思考力 」という問題を重視しているのに対して、廣松渉は「 強靭な思考力」という問題を認識していない。こういう傾向は、近代日本の思想家や学者、文化人に共通する。そこに、小林秀雄の歴史的存在意義がある。つまり、そこに、小林秀雄の「マルクス論」の歴史的存在意義がある。