征韓論ー西郷文書

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いわゆる征韓論の史料 「西郷南洲翁の正気 (その弐)」

 史料①「大使派遣論の趣旨」

 そもそも西南戦争の遠因は、明治六年のいわゆる征韓論破裂にあります。
 南洲翁は自らの大使派遣論に固執したわけですが、これには理由があります。
 自らが勅使となって赴くことについて、これは推論になりますが、当時、筆頭参議であり、且つ唯一の陸軍大将で、いわば日本陸軍の最高司令官であった南洲翁が、兵を引き連れずに単身で渡れば、その平和的意図と誠意は際立つはずであるし、その一方で、軍を動かすことなく、背後に日本の軍隊が控えていることを朝鮮王朝に示すことが出来ます。
 それまで、日本を侮辱するばかりで、まともに国交交渉に応じてこなかった朝鮮王朝に、日本政府の本気度を示し、海外の情勢に疎い彼らに、情勢がのっぴきならぬところまできていることを覚らせる政治的効果があります。南洲翁の立論は、注意して読めば、考え抜かれた論であったことがわかります。(-①)


 南洲翁自身が、論争のクライマックスに当る十月十五ないし十七日に政府関係者に配布した「朝鮮派遣使節決定始末」という文書がある。
 毛利敏彦氏が『明治六年政変の研究』において、「この始末書の内容は、朝鮮使節問題に関する西郷の正式かつ最終的な見解とでもいうべき重要なものである」と評した重要文書である。


「朝鮮御交際の儀、御一新の涯(きわ)より数度に及び使節差し立てられ、百方御手を尽くされ候えども、悉(ことごと)く水泡と相成り候のみならず、数々無礼を働き候儀これあり、近来は人民互いの商道を相塞(ふさ)ぎ、倭館(わかん)詰め居りの者も甚だ困難の場合に立ち至り候故、御拠(およんどころ)なく護兵一大隊差し出さるべく御評議の趣承知いたし候に付き、護兵の儀は決して宜しからず、是よりして闘争に及び候ては、最初の御趣意に相反し候間、この節は公然と使節差し立てらるる相当の事にこれあるべし。
 もし彼(朝鮮)より交わりを破り、戦を以て拒絶致すべくや、その意底慥(たし)かに相顕れ候処までは、尽させられず候わでは、人事においても残る処これあるべく、自然暴挙も計られずなどとの御疑念を以て、非常の備えを設け差し遣わされ候ては、また礼を失せられ候えば、是非交誼を厚く成され候御趣意貫徹いたし候様これありたく、その上暴挙の時機に至り候て、初めて彼の曲事分明に天下に鳴らし、その罪を問うべき訳に御座候。
 いまだ十分尽くさざるものを以て、彼の非をのみ責め候ては、その罪を真に知る所これなく、彼我とも疑惑致し候故、討つ人も怒らず、討たるるものも服せず候に付き、是非曲直判然と相定め候儀、肝要の事と見居(見据え)建言いたし候処、御採用相成り、御伺いの上使節私へ仰せ付けられ候筋、御内定相成り居り候次第に御座候。この段、形行(なりゆき)申し上げ候。以上。」(全文、「西郷隆盛全集」)



 もう一つの史料は、征韓論破裂後の明治七年一月九日、旧庄内藩士酒井了恒(のりつね)が鹿児島の南洲翁の元を訪れ、征韓論破裂の顛末を問い質し、その記憶を自ら書き記した文書である。
 その覚書によると、南洲翁は、正院において次のように説いた、と酒井に語ったという。


「そもそも御一新以来これまで御運びに相成り候は、全く御交誼のためには御座なく候や、然るを只今この方より兵隊御遣わしに相成り候ては、是非それより事の起こりと相成るべし。左様の事にて軍を始め候とも、皇国一般誰存知候者もこれなく、承服奉るべき様もこれなく、以ての外の御事にこれあり、この方よりはいずくまでも、御信誼を尽くさせらるべき御事にて、これまでの使節にては、これより出ずれば彼にて避け、彼にて一歩進めばこれにて二歩退くと申す様にて、今度は儼然(げんぜん)と使節御差し出しに相成り、是非これまでの是非曲直を判然いたし候わば、彼にて決して無事には承知致すまじく、つまりは使節もそのままにては帰し申すまじく、左候えばこそ、皇国一般の人気も揃い、誰か穏便に相済むべくとも存知まじく、唯このままにては所詮御出兵などは存知寄らざる次第、かねがね政府の義務上に当って、一命をば抛(なげう)ちたき宿志に候間、右の使節は私きっと承り、これまでの曲直だけは是非分明に致すべきと申し演(の)べ候…」(「心覚えの大意 酒井玄蕃筆記」)


 当時、政府内における討議には守秘義務があり、征韓論が沸騰していると言っても、それは関連部署内部や一部の者達に限られており、国民一般の知るところではなかった。だから筆頭参議にして陸軍大将の翁自身が、全権大使となって、単身朝鮮に赴けば、国民一般の関心が向けられ、朝鮮問題が真剣に受け止められることになる。その輿論を背景にしなければ、朝鮮朝廷も日本の本気を覚ることはない。李氏朝鮮は清朝の属国であり、支那に対する恐怖心は骨髄に徹しており、彼等の関心は、宗主国の方へ向けられ勝ちであった。それは新政府の国交を求める文書を拒絶する理由にも現れている。


 史料②

 大使派遣論に固執したもう一つの理由は、後の地政学的観点からのものです。
 南洲翁にとって朝鮮問題は即、ロシア問題でした。南洲翁はロシアの南下を防ぐためには、沿海州のポシェット湾-ウラジオストック-ニコライエフスクに至る地域、および満州への出兵が必要と考えていました。そのために通り道に当たる李氏朝鮮の開国を必要としたのです。
 翁の対ロシア戦略は概略次のようなものでした。
 アジアの覇権をめぐって競争している英国とロシアの対立を利用して、陸軍国ロシアを挟み撃ちにする。征韓論争当時、西アジアにおいては、トルコをめぐって、ロシアと英国の間に緊張が高まっており、日本が世界一の海軍国である英国と組んで、東アジアで事を起こせば、トルコも奮発するはずで、東西同時に事を起こせば、世界一の陸軍国ロシアといえども恐るるに足らず。翁はそう考えていました。(-②)おそらくクリミヤ戦争の歴史を知っていたものと思われます。


 これについても、「心覚えの大意 酒井玄蕃筆記」の記述より。


「…今日の御国情に相成り候ては、所詮無事に相済むべき事もこれなく、畢竟は魯(ロシア)と戦争に相成り候外これなく、既に戦争と御決着に相成り候日には、直ちに軍略にて取り運び申さずば相成らず、只今北海道を保護し、それにて魯国に対峙相成るべきか。左すればいよいよ以て朝鮮の事御取り運びに相成り、ホッセット(ポシェット湾)の方よりニコライ(ニコライエフスク)までも張り出し、この方よりきっと一歩彼の地に踏み込んで北地は護衛し、且つ聞くが如くんば、都留児(トルコ)へは魯国よりも是非このままにては相済み申さず、震(ふる)って国体を引き起こせと、泣いて心付け仕り候由、また英国にても同じく泣いて右の通りにいたし候趣、これ何故に候や、兼ねて掎角(きかく)の勢いにて、英・魯の際に近く事起こり申すべきと、この頃亜国(アメリカ)公使の極内の心付けもこれあり、且つ欧羅巴(ヨーロッパ)にては、北海道は各国雑居の地に致し候目論見頻りにこれありと相聞き、大方その事も近々懸け合いに相成るべく、とにかく英にて海軍世界に敵なく候間、却って北海道は暫時英・仏へ借(か)し候方は如何などと申す事にて、欧羅巴においても魯の北海道を目懸け候は、甚だ以て大乱に関係いたし候。右故趣向も付け候には相違これなく、右の通りの時情(事情)に御座候えば、日本にてその通りに憤発致し候とならば、都留児においても、是非一憤発は致すべく、左すればいよいよ英にて兼ねてよりのホー蘭土(ポーランド)より事を起こすには相違これなく、能々(よくよく)英国と申し合わせ、事を挙げ候日には、魯国恐るに足らずと存じ奉り候。」


 南洲翁は続くくだりで、大体次のような趣旨のことを語っている。

 閣議において、はじめに諸参議の見込みを質したところ、ロシアとはいずれ近いうちに戦争になるとの見込みで一致したと言う。ならば、どのように戦っていくか、軍略について討議すべきところ、岩倉具視は、それでは外交の順序を失ってしまうと言って反対した。翁からすれば、これは平常無事の日の順序である。
 朝鮮問題との対比で言えば、朝鮮との外交の趣旨は御交誼、すなわち親善にある。しかし、はじめから侵略を意図しているロシアの場合、相手は本質的に敵であって、しかも近いうちに戦わざるを得ない相手である以上、軍略をもって取り掛かっていくほかない。
 この時、岩倉はロシアとの戦争は恐ろくて出来ない、という趣旨のことを言い、そしてさらに、軍略など知らないと言ったらしい。そこで翁は、知らないならなぜ、知っている者から聞かないのか。政府の義務として行わざるを得ない戦が、恐くて出来ないというなら、それは商法支配所というべきであって、政府ではない、と激論に及んだと言う。
 確かに激論を交わしたらしく、筆記のここのくだりの記述は混乱していて、よく読まないと論旨がつかみにくい。よく読んで欲しい。
 

「その段きっとなく申し述べ候処、岩倉は現に軍(いくさ)は恐ろしくとも申し難き儀に候えば、それにては順序を失うと云う。その順序と申し候えば、全く平常無事の日の順序にこれあり、今日既に戦争と御決定相成り候上は、直ぐと戦略の上にて御運び相成らずば相済み難き儀、畢竟国家のためその義務を尽くすとの順序に御座候わば、縦(たと)い異同これある共、始終見込み一定致さざる儀にはこれなく、始めには参議の方へ手を入れ、その論を破り候積りの処、却って参議は大抵同存と相成り。これよりは戦争に決まり候上は、軍略を説き、彼は今日平世の順序を云う。左候わば御軍略は如何と岩倉へ承り候処、軍略は知らずと申す事、御存知これなくば、何にとて存知候者より御聴き成られざるやとまで申し候事にて、軍が恐ろしくて出来申さずば、今日政府と申す事は御止めに成り、商法支配処とにても名を易(か)え候事ならそれと申す物、今日政府と申し候上は、その義務揚げずと申す訳はこれなく、義務を落し候なら、更に政府にはこれなくと申す事にて、随分甚だしき議論もいたし候。」


 当時の岩倉の国際情勢に対する鈍感さがよく現れている。(国防に関して無気力で、増税のことしか頭にない民主党政権に聞かせてみたい批判だ。)


 次に満州への着眼について。

 翁に親炙した有馬藤太(ウィキ解説;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E8%97%A4%E5%A4%AA)は、貴重な証言を数多く残した人物だが、何度も聞かされた翁の東亜経略を次のように語っている。

「西郷先生は親露的な考えをもっておられ、常にこんなことを話しておられた。『朝鮮、朝鮮とやかましく皆ないうちょるが、朝鮮はホンの通り道じゃ。満州を占領してここに始めてわれわれの足場ができる。この満州の足場を作っておいて、われに手むかう者を片端から征服する。もし手出しせぬ時はわざとそれらを激動せしむる。それはちょうど棚蜘蛛(たなこぶ、薩摩ではクモをコブという)の巣に砂をパラパラッとまくと、蜘蛛がチョロチョロと走り出てくる。その途端に引っつかむ。(といいながら、大きな体をゆすって、ムンズとつかむふうをされた。)これと同じ理屈で、こっちからチョイといたずらする。怒ってくる。それをすかさず占領するという方法でもって、付近を蚕食して、堅固な地歩をしめ、右手に露西亜と握手し、左手に弱清を引起し、もって東洋は東洋で始末するが肝要だ。それがためには樺太は一時露西亜に与えてもよい。万一露西亜がわれに聴かなかったら、まず彼を処分してしかるのち支那に着手するのだ。』という議論で、再三これに関する意見をうけたまわったものだ。」(『維新史の片鱗』)

 ちなみに満州は、辛亥革命のいつ頃からか支那人が唱えだしたような、支那の伝統的領土ではない。満州王朝である清朝の故郷であり、満州人のものである。当時、この地は清朝の封禁政策によって、異民族の侵入が禁ぜられ、無主の地とされていた。とは言え、清朝の衰退によって監視の目は緩やかであり、権力の不在によって馬賊匪賊の跳梁跋扈する荒野となっていた。
 南洲翁が蜘蛛に譬えたのはこの馬賊や匪賊であったと推察される。正当化のために言うのではない。なぜなら、指揮系統の統一された軍隊が、こちらの挑発にばらばらに乗ってくるということはありえないからである。
 南洲翁は明治五年八月頃より、腹心を朝鮮及び満州地方に派遣し、調査させている。満州の事情はよく知っていたのである。
 
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