小林秀雄とマルクス(9月)

小林秀雄マルクス()

小林秀雄は、存在と言っていいからだ。「ネット右翼化現象」は、一部の無知無学な若者たちだけでなく、我が国のインテリ・学者・文化人をも含む、社会の深層部にまで及んでいるからだ。
小林秀雄は、「ネット右翼」と呼ばれている連中とは異なり、むしろ、マルクス主義を評価し、マルクス主義の歴史的役割を絶賛しているといっていい。小林秀雄マルクス主義批判は、マルクス主義を正当に評価した上での批判である。

先日、立憲民主党と国民民主党の間で、野党大合流の話が、いよいよ大詰めを迎えようとしている時、「共産党」と組むのだけは嫌だ、と言う人が何人か登場し、合流に参加しない、と言い出して、話題になったことがあった。私は、「共産党」を批判した。しかし、その批判は、単純ではない。現代日本では、マルクス主義共産主義を批判することは一種に流行、定番となっている。たとえば、「ネット右翼」と言われるような、通俗的保守主義通俗的右翼主義までが横行し、マルクス主義共産主義、あるいは、共産党を「眼の仇」にしている。もちろん、彼らは、マルクス主義共産主義を、あるいはその歴史を、正確に理解した上で批判しているわけではない。したがって、彼らのマルクス主義批判と小林秀雄のそれを、同一視する事は出来ない。しかし、「ネット右翼」と言われる連中の存在も無視できない。現代日本の思想状況を象徴する存在と言っていいからだ。「ネット右翼化現象」は、一部の無知無学な若者たちだけでなく、我が国のインテリ・学者・文化人をも含む、社会の深層部にまで及んでいるからだ。
小林秀雄は、「ネット右翼」と呼ばれている連中とは異なり、むしろ、マルクス主義を評価し、マルクス主義の歴史的役割を絶賛しているといっていい。小林秀雄マルクス主義批判は、マルクス主義を正当に評価した上での批判である。

先日、立憲民主党と国民民主党の間で、野党大合流の話が、いよいよ大詰めを迎えようとしている時、「共産党」と組むのだけは嫌だ、と言う人が何人か登場し、合流に参加しない、と言い出して、話題になったことがあった。私は、「共産党」を特別視し、「共産党」と連携することだけには反対だ、という主張が間違っていると言うつもりはない。だが、保守・右翼陣営ならともかくとしても、野党陣営の間でさえ、「共産党」だけにアレルギーを持っている人が存在するということに、深い関心を持った。何故、共産党なのか。それは、右翼・保守派の無知無学に由来する素朴な「共産党アレルギー」の影響、あるいは模倣に過ぎないのではないか。あるいは、自民党サイドから仕掛けられた野党分断工作に便乗しただけでは、ないのか。
私が、今、問題にしている小林秀雄は、そういう単純素朴な「共産党アレルギー」の持ち主ではなかった。小林秀雄は、マルクス主義共産主義の運動が、近代本の思想史上、重要な役割を持って登場したことの歴史的意義を、深く理解していた。小林秀雄が、文壇や論壇に彗星のごとく登場した昭和初期という時代は、まさしく、マルクス主義共産主義という思想が、日本中を席巻していた時代であった。大学生や知識人たちの多くが、マルクス主義共産主義に洗脳され、いわゆる「マルクス・ボーイ」と呼ばれたような時代だった。小林秀雄の周辺にいる友人たちの多くも、マルクス主義共産主義の信奉者になっていた。そういう時代に、小林秀雄は、思想的自己形成を遂げるのである。
つまり、小林秀雄は、マルクス主義共産主義に同調するのではなく、「対決」することによって、「近代批評なるもの」を創り出していった。それは、孤軍奮闘の戦いであった。逆説的に表現するならば、小林秀雄が「批評家」になりえたのはマルクス主義共産主義の「おかげ」だった。マルクス主義共産主義という過激な思想が猛威をふるっていたからこそ、小林秀雄は、その過激思想と対決し、論争し、論破しなければならなかったのである。

逆に、現代日本の「共産党と組むのは嫌だ」と言う「共産党アレルギー」の人たちには、そういう真剣な対決の構図はない。マルクス主義共産主義を、ナチズムやファシズム、あるいは全体主義と同一視し、勘違いしているにすぎない。そういう言葉に、賛同・共感する人々は、現代日本の政界や論壇やジャーナリズムには、同じ「共






明確な政治的、理論的イデオロギーを持つことに拒否反応を示しているつもりなのだと思う。

  そもそも、現代日本保守系エリート層にも、大量の「元共産党員」「元共産主義者」が存在するはずである。読売新聞の渡辺恒雄や戦後右翼運動の中心人物の一人となった田中清玄、作家の林房雄、評論家西部すすむ・・・。彼らは、共産党員時代、あるいは共産主義者時代に学んだマルクス主義的な「理論的思考力」を、転向後、右翼・保守陣営で活躍するようになってからも、保持していた。西部に至っては、保守思想を、マルクス主義的に、あるいは共産主義的に、理論化、体系化したのである。昨今の「ネット右翼」と呼ばれる連中は、自分たちの信奉し

に、小林秀雄は、一人、立ち止まり、マルクス主義共産主義と、理論的に「対決」したのである。次の文章は、丸山眞男が『日本の思想』で取り上げた事もあり、かなり有名になったものだ。私も、何回か引用している重要な一文だ。小林秀雄が、何と闘ったかが分かるだろう。

《第一私たちは今日に至るまで、批評の領域にすら全く科学の手を感じないで来た、と言っても過言ではない。こういう状態にあった時、突然極端に科学的な批評方法が導入された。言うまでもなくマルクシズムの思想に乗じてである。導入それ自体には何ら偶然な事情はなかったとしても、これを受け取った文壇にとっては、まさしく唐突な事件であった。てんで用意というものがなかったのだ。当然その反響は、その実質より大きかった。そしてこの誇張された反響によって、この方法を導入した人たちも、これを受け取った人たちも等しく、この方法に類似した方法さえ、わが国の批評史の伝統中にはなかったという事を忘れてしまった。これは批評家等が誰も指摘しないわが国独特の事情である。》

丸山眞男は、小林秀雄の分析は、まことに見事な分析だと、絶賛している。ここで、小林秀雄は、マルクス主義の歴史的役割とその意義を高く評価している。要するに、小林秀雄マルクス主義を批判したと言うだけでは、小林秀雄マルクス論の深層は理解できない。小林秀雄は、マルクス主義共産主義の「科学性」や「徹底性」「過激性」「恐ろしさ」もよく知っていた。それを高く評価していた。小林秀雄は、「思考の徹底性」「思考のラジカリズム」を、マルクス主義から学んだ、と言ってもいい。だから、丸山眞男の『日本の思想』に触発されて、当時の文壇や論壇」で議論された「理論信仰」と「実感信仰」という二元論とも違う。小林秀雄は、マルクス主義的な理論信仰に対して、文学的な実感信仰を主張したのではない。小林秀雄マルクス主義から「理論信仰」を学ぶと同時に、それを乗り越えようとして、「理論信仰」を貫いたのである。はじめから、「理論信仰」を捨てて、「実感信仰」を主張したわけではない。おそらく、ここらあたりに、小林秀雄マルクス論の独自性と徹底性がある。
 言い換えれば、小林秀雄は、マルクス主義共産主義を内側から乗り越えようとしている。小林秀雄と同時代にもマルクス主義共産主義を批判する人は、少なくなかった。しかし、彼らのマルクス主義批判や共産主義批判は、外側からなされたものであり、思想史的に価値あるものとして残っていない。たとえば、当時の自由主義者民族主義者・・・たちのマルクス主義批判や共産主義批判を、評価する人たちもいるかもしれないが、私は評価しない。読むに値するものとは思わない。ただ、もう一つの思想としての自由主義民族主義を主張したものにすぎない。
 小林秀雄は、そこが決定的に違う。小林秀雄は、マルクス主義共産主義に対して、自由主義民族主義も主張していない。その他の思想も主張していない。

《私は、今日日本文壇のさまざまな意匠の、少なくとも重要とにえるものの間は、散歩したと信ずる。私は、何物かを求めようとしてこれらの意匠を軽蔑しようとしたのでは決してない。ただ一つの意匠をあまり信用し過ぎないために、むしろあらゆる意匠を信用しようと努めたに過ぎない。》(『様々なる意匠』) 
ここに小林秀雄の立ち位置がある。それは、立ち位置とも言えない微妙な場所である。