マルクスマルクス主義を語る人の多くは、イデオロギーのレベルで語る。つまり理論や体系のレベルで語る。存在論のレベルで語る人は少ない。小林秀雄は、明らかに、マルクスを 、存在論のレベルで語る。小林秀雄マルクス論が際立つのは、そこに理由がある。私は、この連載で、一貫して、存在論のレベルのマルクス論にこだわってきた。言い換えれば、小林秀雄的なマルクス論にこだわってきた。たとえば 、廣松渉ルイ・アルチュセールは、『ドイツ・イデオロギー 』あたりでマルクスは大きく変わったという。そこに「ゲシュタルト・チェンジ」があり、「認識論的切断」があるという。しかし 、そこで、問題になっているのは 、あくまでも理論である。つまり、「理論A」から「理論B」への変化や発展である。たとえば、「観念論」から「唯物論」、あるいは「唯物史観」hrの変化、発展である。つまり、「マルクスが変わった」と言っても、理論の内容が変わったに過ぎない。その証拠に、廣松渉は、『ドイツ・イデオロギー 』において、「唯物史観の誕生」を位置づけている。マルクスは、『ドイツ・イデオロギー 』前後に、唯物史観的地平を切り開いた、あるいはブレイク・スルーしたということになる。明らかに、小林秀雄マルクス論とは違う。小林秀雄は、そこに登場する様々な思想や理論を、様々な「意匠」と捉える。小林秀雄が重視するのは、理論であなく、理論を産み出す思考力である。どんな過激な理論も、過激な思考力なしにはありえない。言い換えれば、理論は思考力の形骸にすぎない。
小林秀雄が、マルクスマルクス主義と対決した時代は、戦前で、昭和前期にあたる時代であった。革命前夜とも言うべき時代で、過激なマルクス主義的な政治思想や革命思想が飛び交っていた。その後に来るのは「戦争の時代」である。ここでも、過激な右翼思想や、後に天皇ファシズムと呼ばれることになる思想が飛び交っていた。革命の時代には革命の思想やイデオロギーが飛び交い、戦争の時代になると 、戦争の思想やイデオロギが飛び交っていた。小林秀雄は、どちらにも批判的だった 。つまり、左翼思想の跋扈にも批判的だったが、右翼思想の跋扈にも批判的だった。この小林秀雄の立ち位置こそ、小林秀雄マルクスを象徴している。
たとえば 、この頃、小林秀雄が親しく交流していた作家に林房雄がいる。林房雄は、学生時代から、「東大新人会」に属し、典型的なマルクス主義者だった。しかし、林房雄は逮捕され、獄中の人となる。そして獄中で転向する。すると、今度は典型的な民族派の右翼青年となる。つまり、林房雄は、左翼の思想から右翼の思想へと飛び移る。転向の前後で、思想や理論を、「信仰」していることには変わりはない。小林秀雄が嫌うのは、思想や理論がなければ、安心できない人々である。つまり、小林秀雄は、左翼の思想も右翼の思想も、同じように否定する。一見、小林秀雄は中間的位置に立っているように見える。あるいは優柔不断な無思想の人のように見える。しかし、そうではない。小林秀雄が立っていたのは、いかなる思想やイデオロギーをも拒否する存在論的位置である。それは、過激な思考力を必要とする。小林秀雄が立っていた位置は、思考力だけを武器にして闘う存在論的位置であった。


小林秀雄に『 中庸』という短いエッセイがある。孔子の『 論語』の中の中庸の説を論じたものである。小林秀雄の「中庸」論を読むと 、小林秀雄マルクス論の独自性が分かる。こういう書き出しで、はじまる3。
《 左翼でなければ右翼、進歩主義でなければ反動主義、平和派でなければ好戦派、どっちも付かぬ意見を抱いている様な者は、日和見主義者といって、ものの役には立たぬ連中である。そういう考え方を、現代の政治主義ははやらせている。 》(「中庸」)
小林秀雄は、こういう二元論的、あるいは三元論的な思考を 否定する。二元論にせよ、三元論にせよ、「様々なる意匠」にすぎない。こういう思考は、理論や体系こそ、思考というものであり、こういう思考以外に思考はありえないと考える人は少なくない。小林秀雄は、そこで 、第三の思考を提示する。これこそ存在論的思考である。その存在論的思考が、孔子の「中庸」的な思考であると、小林秀雄は言っているように見える。もちろん 、そういう言い方はしていないが・・・。

《 昔、孔子が、中庸の徳を説いたことは、誰も知るところだが、彼が生きた時代もまた、政治的に紛乱した恐るべき時代であったことを念頭に置いて考えなければ、中庸などという言葉は死語であると思う。おそらく、彼は、行動が思想を食い散らす様を、到るところに見たであろう。行動を挑発しやすいあらゆる極端な考え方の横行するのを見たであろう。行動主義、政治主義の風潮の唯中で、いかにして精神の権威を打ち立てようかと悩んだであろう。その悩ましい思索の中核に、自ら中庸という観念の生まれて来るのを認めた。そういう風に、私には想像される。そういう風に想像しつつ、彼の言葉を読むと、まさにそういう風にしか、中庸という言葉は書かれていないことが解る。 》(同上)

小林秀雄は、孔子の「中庸」を、平凡な中庸とは異なる、小林秀雄的な独特な解釈をする。つまり、平均的な、中間的な思想や立場のことではない。右の思想や左の思想が乱舞する時代に、真ん中の思想を唱えたのではない、と小林秀雄は言う。そんな無難な、安全な思想を唱えたのではない。右であれ、左であれ、過激な、極端な思想が乱舞する時代に、孔子は、「中庸」を説いた。小林秀雄は言う。

《 中庸を説く孔子の言葉は、大変烈しいものであって、いわゆる中庸を得たものの言い方などはしていないのである。
 「天下国家モ均シクス可シ、爵禄モ辞ス可シ、白刃モ踏ム可シ、中庸ハ能クス可カラザルナリ」
 つまり、中庸という実践的な智慧を得るという事に比べれば、何もかも皆易しいことだと言うのである。なぜ、彼にはこんな言い方が必要だったのだろうか。無論、彼の言う中庸とは、両端にある考え方の間に、正しい中間的真理があるというような、簡単な考えではなかったのであって、上のような言い方は、彼が考え抜いた果てに到達した思想が、いかに表現しがたいものであったかを示す。 》(同上)

小林秀雄によれば、孔子の「中庸」の思想は 、生易しい思想ではばい。大変、激しい思想だ。右の思想や左の思思想の間の中間的思想のことではない。小林秀雄の、こういうふうな解釈を追って行くと、孔子の説く「中庸」が、我々の想像を絶するもだということが、朧げに見えてくる。おそらく、右の過激思想や左の過激思想と同程度か、それ以上の過激思想だということが・・・。

《 「天下国家モ均シクス可シ、爵禄モ辞ス可シ、白刃モ踏ム可シ、中庸ハ能クス可カラザルナリ」 》(同上)

要するに、「中庸」の立場にたつ
あるいは、「中庸」の立場を維持し、保つということは、一番、難しい。地位や名誉や勲章の類を断わることより、あるいは、「白刃」の上を踏むことよりも難しい。「中庸」は、なかなか実行できない、と言う。つまり、右の過激思想も左の過激思想も、いづれも思想にすぎない。イデオロギーにすぎない。しかし、「中庸」は、思想でもイデオロギーでもない。
《無論、彼の言う中庸とは、両端にある考え方の間に、正しい中間的真理があるというような、簡単な考えではなかったのであって、上のような言い方は、彼が考え抜いた果てに到達した思想が、いかに表現しがたいものであったかを示す。 》(同上)

孔子の「中庸」は表現し難いものである。何故、表現し難いのか。それは思想やイデオロギーではないからだ。孔子が、たどり着いた思想や思想的立場は、思想やイデオロギーではない。思想やイデオロギーは、どんなに難解で、複雑怪奇な思想であっても、それが思想である限り、決して難解でも、到達困難でもない。思想は意味であり、観念である。孔子の説く「中庸」は、意味や観念ではない。