小林秀雄とマルクス(13)

小林秀雄マルクス(13)

小林秀雄にとって、「尺度による批評」とは、おそらく、マルクス主義的批評のことだろう。マルクス主義的批評の対極に、「嗜好による批評」 、あるいは次に述べる「印象批評」がある。しかし、ここで、小林秀雄は、嗜好的批評と尺度的批評の折衷案を提示しているかのように見える。しかし、私は、折衷案とは思わない。

《 常に生き生きとした嗜好を有し、常に溌剌たる尺度を持つという事だけが容易ではないのである。 》(『様々なる意匠』)
「 生き生きとした嗜好 」と「 溌剌たる尺度 」の両立、あるいは折衷案。しかし、私は、ここで、小林秀雄が、「 溌剌たる尺度 」を重視しているとは思わない。あくまで、「 生き生きとした嗜好 」という点に重心はある。「 生き生きとした嗜好 」の先に「 溌剌たる尺度 」はある。つまり、好き嫌いでものを言う「嗜好的批評」の重大さを指摘していると思う。科学的批評や客観的批評、合理的批評を標榜するマルクス主義的批評に対して、まったく異なる批評を対置している。
少なくとも、ここで、小林秀雄は、好き嫌いでものを言う「嗜好的批評」を、科学的、合理的、客観的批評としての「尺度的批評」を、対等に評価していると言っていい。

何回も言ったように、マルクスを論じたり研究する人たちの多くは、マルクスの「思考」や「方法」ではなく、マルクスの「理論」や「イデオロギー」に重大関心を持っている。疎外論にしろ物象化論にしろ、あるいは初期マルクス論にしろ後期マルクス論にしろ、それは変わらない。小林秀雄マルクス論はそこが違う。小林秀雄も、マルクスの「理論」や「イデオロギー」にも関心を持っているだろうが、小林秀雄の主な関心はそこにはない。小林秀雄の主な関心は、マルクスの「思考」や「方法」にある。言い換えれば、小林秀雄の「批評」そのものが、「思考」論や「方法」論から成り立っている。小林秀雄マルクス論の独自性もそこにある。
小林秀雄は、『様々なる意匠』で、尺度と嗜好の関係を論じた後、その続きとして、「印象批評」について、論じている。印象批評とは何か。何故、印象批評なのか。次のように書いている。

《 嘗て主観批評や印象批評の弊害という事が色々と論じられた事があった。然し結局「好き嫌いで人をとやかく言うな」という常識道徳の或は礼儀作法の一法則の周りをうろついたに過ぎなかった。或は攻撃されたものは主観批評でも印象批評でもなかったかもしれない。「批評になっていない批評」というものだったかも知れない。「批評になっていない批評の弊害」では話が解りすぎて議論にもならないから、というものだったかも知れない。 》(同上)

この文章は、一見、平凡な文章のように見える。「印象批評」や「主観批評」について、素朴な感想を述べているだけのように見える。しかし、よく読んでいくと、ここに、小林秀雄の批評の神髄とでも言うべき物が見えてくる。同時に、小林秀雄マルクス論の神髄が述べられていることがわかる。ここで、小林秀雄は、印象批評を半ば批判しつつ、実は擁護している。それは、「嗜好的批評」と「尺度的批評」を対比しつつ、さりげなく「嗜好的批評」を擁護しているのと同じだ。つまり、誤解を恐れずに言えば、「印象批評」とは、「嗜好的批評」と同様に、幼稚・稚拙な批評のように見えるが、実は、底の深い、本質的な批評の可能性をはらんでいるということだ。小林秀雄は、印象批評という言葉を、深いレベルで解釈しなおすことで、印象批評の再評価、再発見を行っていると言っていい。
《 兎も角私には印象批評という文学史家の一術語が何を語るか全く明瞭でないが、次の事実は大変明瞭だ。所謂印象批評の御手本、例えばボオドレエルの文芸批評を前にして舟が波に掬われるように、繊鋭な解析と溌剌たる感受性の運動に、私が浚われて了うという事である。この時、彼の魔術に憑かれつつも、私が正しく眺めるものは、嗜好の形式でもなく、尺度の形式でもなく無双の情熱の形式をとった彼の夢だ。それは正しく批評ではあるがまた又彼の独白でもある。人は如何にして批評というものと自意識というものと区別し得よう。彼の批評の魔力は、彼が批評するとは自覚する事である事を明瞭に悟った点に存する。批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事ではない。批評とは、竟に己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!》(同上)

小林秀雄が、印象批評というものを、婉曲的に擁護していることがわかる一文だ。それは、《 所謂印象批評の御手本、例えばボオドレエルの・・・》という言い方にあらわれている。小林秀雄は、印象批評を幼稚・稚拙な主観的批評としてではなく、ボオドレエルの文芸批評こそ印象批評の御手本とみなして、再評価しようとしている。つまり、小林秀雄は、科学的批評でも合理的、客観的批評でもなく、印象批評を評価し、擁護している。
では、印象批評とは何か。小林秀雄によれば、印象批評とは、素朴な印象や感想を述べるだけの主観的批評ではない。印象批評とは、科学的批評や客観的批評のように、批評の基軸を 自己の外部に設定するのではなく、あくまでも、主観的批評と見間違うような、批評の基軸を自己の内部におくものである。小林秀雄の批評は、「自意識」や「自覚」・・・と深く関わっている。
《人 は如何にして批評というものと自意識というものと区別し得よう。》《 彼の批評の魔力は、彼が批評するとは自覚する事である事を明瞭に悟った点に存する 》《 批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事ではない》というような言葉に、それは、あらわてている。繰り返して言うならば、小林秀雄は、「嗜好による批評」や「印象批評」を、半ば批判し、否定しつつ、一方では、強力に擁護している。「嗜好による批評」や「印象批評」の方に、批評の可能性を認めている。嗜好や印象批評を排除して、客観主義や科学主義に流れることを極度に警戒している。
《 批評とは、竟に己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!》という断言は、「己れの夢」を語ることを否定していない。と同時に、「懐疑的」に語ることを重視している。これは、言い換えれば、「己の夢」を語ることを恐るな、ということであり、同時に「懐疑的」に語れ、つまり自己分析、自己批判を徹底せよということであろう。言い換えれば、ロマン主義とリアリズムを、共に肯定しているとも読める。小林秀雄の批評は、嗜好的批評や印象批評を 極限まで追究していくところにある。
《 所謂印象批評の御手本、例えばボオドレエルの文芸批評を前にして舟が波に掬われるように、繊鋭な解析と溌剌たる感受性の運動に、私が浚われて了う》とか、《 この時、彼の魔術に憑かれつつも、私が正しく眺めるものは、嗜好の形式でもなく、尺度の形式でもなく無双の情熱の形式をとった彼の夢だ。それは正しく批評ではあるがまた又彼の独白でもある 》という「ボオドレエルの文芸批評」への最大の賛辞が、それを示している。つまり、小林秀雄の批評の理想は、「 所謂印象批評の御手本」としての「ボオドレエル的文芸批評」のことなのだ。
小林秀雄マルクス論は、小林秀雄が理想とする「 所謂印象批評の御手本」としての「ボオドレエル的文芸批評」の具体的な実践なのだ。これは、何もマルクス論だけに限らない。小林秀雄のあらゆる批評行為が、「 所謂印象批評の御手本」としての「ボオドレエル的文芸批評」の具体的実践なのだ。
たとえば、ここに、小林秀雄の『 徒然草』という批評作品がある。小林秀雄徒然草論は、鋭い。しかし、何処が、何故、鋭いのかは、読者には容易にわからない。誰もが納得する批評ではない。それは、小林秀雄の「印象批評」にほかならないからだ。たとえば、こんな文章で始まる。

《 徒然なる儘に、日ぐらし、硯に向ひて、心に映り行くよしなしごとを、そこはかと無く書きつくれば、怪しうこそ物狂ほしけれ」。「徒然草」の名は、この有名な書出しから、後人の思い付いたものとするのが通説だが、どうも思い付きはうま過ぎた様である。兼好の苦がい心が、洒落た名前の後に隠れた。 》
さらに、こんな文章もある。

《 つれづれ」という言葉は、平安時代の詩人等が好んだ言葉の一つであったが、誰も 兼好の様に辛辣な意味をこの言葉に見付け出した者はなかった。彼以後もない。「徒然わぶる人は、如何なる心ならむ。紛るる方無く、唯独り在るのみこそよけれ」、兼好にとって徒然とは「紛るる方無く、唯独り在る」幸福並びに不幸を言うのである。
「徒然わぶる人」は徒然を知らない、やがて何かで紛れるだろうから。やがて「惑の上に酔ひ、酔の中に夢をなす」だろうから。兼好は、徒然なる儘に、「徒然草」を書いたのであって、徒然わぶるままに書いたのではないのだから、書いたところで彼の心が紛れたわけではない。紛れるどころか、眼が冴えかえって、いよいよ物が見え過ぎ、物が解り過ぎる辛さを、「怪しうこそ物狂ほしけれ」と言ったのである。 》