小林秀雄と宮本顕治

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小林秀雄宮本顕治
13/07/01

小林秀雄が亡くなったのは昭和58年の三月だった。私が35歳のときだった。それまでも、それからも文士としての小林秀雄の大きさは、なんとなく耳にして無視できない存在で、彼の本なども何冊か本棚に置かれてはいたのだが、まじめに読んでみることはなかった。いや、何度か読もうとしてみたし、読んでみて感銘を受けた文章のいくつかもあって、「志賀直哉論」などは、そのひとつである。

その他のもの、とりわけ彼のデビュー作たる「様々なる意匠」などは、まったくちんぷんかんぷんで手に負えなかった。何度読もうとしても、最初の数行で本を閉じた。だが、やはり小林秀雄は気になる文士だったから、逝去された直後に刊行された「文学界」と「新潮」の追悼特集号だけは、買い求めておいた。四年ほど前か、急に小林秀雄に興味を持ち、本棚の奥の方に赤茶けて収まっていた、この二冊の雑誌を、引っ張り出して、隅から隅まで読み上げた。若い頃は、ほんんど理解不能だった、小林の文章が、少しずつ分かり始めてきた。

若い頃からずっと、わたしは小林より、むしろ宮本顕治の「敗北の文学」に心底から影響されていた。冒頭にも書いたが、小林の文章はほとんど理解できなかったのだ。比べて「敗北の文学」のなんと、分かりやすかったことか。宮本の文章は、若者の革命的ロマンチシズムが満載されていた。革命青年にとって、自殺した芥川龍之介とは、また格好のセンチメンタリズムを満たす材料たりえたということだ。

宮本の「敗北の文学」ばかりは、文学論を読んだというよりは、どうみても勇ましい革命歌でも聴かされていたという気がする。宮本の声は、蛮声ではなかった、知性すら感じさせてくる文体だった。今になって思えば、わたしの場合も、宮本の文体からかもし出される美声に酔わされていたと思うしかないのである。

民衆が新しい明日の芸術を創造する。これは、事実上芥川氏自身が自らに向けた否定の刃(やいば)ではないか。あらゆる天才も時代を超えることはできないとは、氏のたびたび繰り返したヒステリックな凱歌であった。こうした絶望そのものが、「自我」を社会に対立させるブルジョア的な苦悶でなければならない。

この作家の中をかけめぐった末期の嵐の中に、自分の古傷の呻きを聞く故に、それ故にこそ一層、氏を再批判する必要があるだろう。いつの間にか、日本のパルナッスの山頂で、世紀末的な偶像に化しつつある氏の文学に向かって、ツルハシを打ちおろさなければならない。

「敗北の文学」より

こうして「改造」が募集した懸賞論文は、宮本の「敗北の文学」のほうが第一席を得て、小林のものは二席となった。昭和4年のことである。考えてみるまでもなく、これは当時のプロレタリア文学全盛時代の風潮にすぎず、誰がみても小林の「様々なる意匠」の方に軍配を上げるのが当然だろうとは、今になって言えることなのである。

むしろ、端的にはなにを言っているのか分からないという風評だった小林の論文が次席とはいえ入選したことのほうが不思議なくらいだ。右か左か、革命か反動か、はたまた戦争か平和かの二項対立的思考が大手を振って文壇や論壇を席捲していたあの時代に、小林の文章を多少なりとも読み解く人間がいたという事実のほうに驚くのである。

優れた芸術は、常にある人の眼差しが心を貫くがごとき現実性を持っている。人間を現実への情熱に導かないあらゆる表象の建築は便覧(マニュアル)にすぎない。人は便覧をもって右に曲がれば街へ出ると教える事は出来る。しかし、座った人間を立たせることはできない。人は便覧によって動きはしない、事件によって動かされるのだ。強力な観念学は事件である。強力な芸術もまた事件である。

「様々なる意匠」より

小林は「様々なる意匠」を懸賞金ほしさに書いたらしい。原稿は、当時「改造」の社員だった友人の深田久弥(「日本百名山」の著者)に託した。本人は一席当選間違いなしと自信たっぷりで、懸賞金を担保に前借し、友達を呼び集め大盤振る舞いに及んだらしい。小林らしい。結果は、二席ということで、ずいぶん落胆したと聞く。

二年ほど前、とある古書店で「レクイエム 小林秀雄」(講談社 吉田熈生:編)という本を見つけた。この本の中に、小林の訃報に接した時の新聞社の取材に答えた宮本顕治の短い談話があった。

朝日新聞昭和58年3月1日(夕刊)「別々の道でも相交わる一点」 宮本顕治氏(75歳)の話

「改造」の懸賞論文に二人が入選したことなどから、何かにつけて並べて語られるが、小林氏と直接の面識はない。それというのも当時の入選者には、今日のような授賞式めいたものはなく、私は一人で出向き小さな応接室で懸賞金をもらったからだ。文学的デビューで私は社会主義の立場から、彼は近代個人主義の立場からの批評であって、文学的にも社会的にも別々の道を半世紀にわたって歩いたわけだ。戦後、鎌倉の今はなき正木千冬さんが革新市長に立候補したとき、共産党も推したが小林氏らも正木氏の後援会の一員として推していることが分かり、双方の人生に珍しく相交わる一点を感じて感慨があった。いずれにしても、因縁のある同時代人の訃報に接し、さびしい。

昭和58年といえば、宮本も共産党の最高指導者として磐石の地位を築いた頃である。上の談話も、若い頃の原理主義的戦闘的リゴリズムはすっかり影をひそめ、後々、取りざたされないように慎重に言葉が選ばれている。そらぞらしいほどだ。それはよいとしても、自分が書いた「敗北の文学」は社会主義的立場からのものであり、小林の「様々なる意匠」は近代個人主義の立場から書かれたものだとする相変わらずの短絡的決め付け風思想腑分け作業による概括は、これを聞きつけた小林が草葉の陰で笑らっているに違いない。ましてや選挙の話など、語るに落ちる。

僕が反対してきたのは、論理を装ったセンチメンタリズム、或いは進歩啓蒙の仮面をかぶったロマンチストだけである・・・「中野重治君へ」小林秀雄


<2007.08.25 記>

カテゴリー:■兵法と日常

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