小林秀雄とマルクス()

小林秀雄マルクス

小林秀雄マルクス論の出処は何処か。私は、前回、小林秀雄の独特のマルクスの読み方が、小林秀雄の文芸批評作品にも、たとえば、「平家物語」論などの古典論にまで、そのまま応用されていることを見た。今回は、前後が逆になるが、小林秀雄のデビュー作である『様々なる意匠』において、すでに、小林秀雄の独特のマルクスの読み方、言い換えれば、小林秀雄的批評のスタイルは、完成されていことを確認しておきたい。少なくとも『様々なる意匠』の段階で、小林秀雄は、マルクス主義批判の方法論を、確立していた。私は 、前から繰り返し、言っているように、小林秀雄マルクス論は、マルクスマルクス主義、ないしはマルクス主義者を明確に区別するところにある。マルクスマルクス主義を区別し、「思考する人」としてのマルクスを擁護し、「他人の思考の模倣・反復」でしかないマルクス主義、ないしは「思考させられている人」としてのマルクス主義者を徹底的に批判する。それは、マルクス論だけに限らない。小林秀雄の全批評作品、全言論活動に流れている主調低音である。と言うと、私が、小林秀雄の批評の方法論を「理論」として語っているように見えるかもしれない。確かに 、私は、「理論」として語っている。しかし、少なくとも小林秀雄は、「理論」としては語っていない。それを黙々と実践している。理論は反復出来るが、実践は反復出来ない。小林秀雄の批評の魅力は、常に新しい実践だからだ。そこには、模倣や反復を許さない厳しさがある。もし私の書くものが、つまらないとすれば、それは、実践になっていないからだろう。つまり、理論の反復でしかないからだろう。それは、私がここで書いている小林秀雄の批評理論にも反する。従って、私もまた、小林秀雄の批評理論を、理論として語るのではなく、実践的に語ろうと思う。小林秀雄の『様々なる意匠』の冒頭部分を読みながら、この問題を考えてみたい。小林秀雄は、『様々なる意匠』の冒頭に、アンドレ・ジイドの次の言葉をエピグラムとして掲げている。

《 懐疑は、おそらく叡智の始めかも知れない。しかし、叡智の始まる処に芸術は終るのだ。アンドレ・ジイド 》

『様々なる意匠』は、小林秀雄のデビュー作であり 、批評家・小林秀雄の誕生を告げる批評原理論であり、近代文学史的に見れば、ここで、近代批評が確立した記念碑的論考である。小林秀雄が、 意味もなく、アンドレ・ジイドの言葉を巻頭に掲げるはずがない。おそらく、批評の確立を目指す「批評家自立宣言(マニフェスト)」のつもりだったろう。では、小林秀雄は、このアンドレ・ジイドの言葉を、どういう意図で掲げたのだろう。そもそも、ここに出てくる「懐疑」とは何か、「叡智」とは何か。私の考えでは、この二つの言葉の使い分けの中に、小林秀雄的批評の方法論は鮮明である。懐疑とは疑いであり、疑問を持つことである。懐疑の段階では、答えは出ていない。したがって叡智、つまり知識や理論、教養ともなっていない。小林秀雄が、あるいはアンドレ・ジイドが重視するのは、この懐疑の段階であろう。しかし、懐疑には、やがて結論か結論らしきものが出てくる。そして、その結論が、知識や理論や教養として体系化され、「叡智」となる。我々は、普通、この体系化された叡智を武器に、それを振りまわすことによって、科学的、合理的に「思考する」と考えがちである。しかし、アンドレ・ジイドと小林秀雄は、ちがう。そういう常識を批判する。それが、後段の部分である。
《 しかし、叡智の始まる処に芸術は終るのだ 。》
アンドレ・ジイドや小林秀雄は、こう言っているのだ。体系化された知識や理論や教養で、「理論武装」した人間は、本当に思考しているのだろうか、と。少なくとも、それは「芸術的思考」ではないだろう、と。この「芸術」や「芸術的思考」が、小林秀雄の場合、「批評」や「批評的思考」である。私は、このアンドレ・ジイドの言葉の中に、マルクスマルクス主義を区別する小林秀雄の批評理論の原型はあると思う。少なくとも小林秀雄は、そういう意図のもとに、アンドレ・ジイドの言葉を 、『様々なる意匠』の巻頭にエピグラムとして掲げたのだ。とすれば、懐疑派はマルクス小林秀雄であり、叡智派はマルクス主義者たちだということになる。
さて『様々なる意匠』の本文はどうなっているだろうか。本文の書き出しを見てみよう。本文の書き出しは、こうなっている。

《吾々にとって幸福な事か不幸な事か知らないが、世に一つとして簡単に片付く問題はない。》(『様々なる意匠』)

私は 、この冒頭の文章にも、小林秀雄の「批評家自立宣言」の意図と決意は、深く封じ込められていると思う。ここで、小林秀雄は、「簡単に片付く問題」ではなく、「簡単に片付かない問題」を、これから扱うと宣言している、と見ていい。小林秀雄にとって、簡単に片付く問題とは 、習い覚えた知識や理論や教養で、解決出来る問題のことである。では、簡単には片付かない問題と何か。小林秀雄は、続けて、こう書いている。


《 遠い昔、人間が意識と共に与えられた言葉という思索の唯一の武器は、依然として昔ながらの魔術を止めない。 劣悪を指嗾しない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない。しかも、もし言葉がその人心眩惑の魔術を捨てたら恐らく影に過ぎまい。》

小林秀雄は、ここで、「言語」を問題にしている。 《 遠い昔、人間が意識と共に与えられた言葉という思索の唯一の武器》としての言語、《 人心眩惑の魔術》としての言語。要するに 、『様々なる意匠』で、「言語論」を提起している。しかし、小林秀雄の言語論ば、昨今、誰でもが、ソシュールウィトゲンシュタインを持ち出して、「馬鹿の一つ覚え」のように叫ぶ「20世紀は『 言語学の世紀だ』」というような、流行思想としての「言語論」でも「言語哲学」でもない。むろん、小林秀雄の言語論は、「流行の先取り」でもない。小林秀雄は、ここで、言語を手段とも目的とも見ていない。つまり、知識や教養としての言語論ではない。作家や詩人たちは、昔から、「言葉」を重視してきた、という意味でもない。それらすべては、イデオロギーとしての言語論である。後に詳しく見るように、小林秀雄にとっては、言語、あるいは言語論とは、そうではない。言語という具体的な物に、直面し、衝突するという「人間存在論」そのものである。

《私は、ここで問題を提出したり解決したりしようとは思わぬ。私はただ世の騒然たる文芸批評家等が、騒然と行動する必要のために見ぬ振りをした種々な事実を拾い上げたいと思う。 私はただ、彼等が何故にあらゆる意匠を凝らして登場しなければならぬかを 、少々不審に思うばかりである。》

小林秀雄以前に「文芸批評家」がいなかったわけではない。しかし、小林秀雄のように、「文芸批評家」という職業を、一種の天職とみなし、「文芸批評家」であることに存在意義を見出したような「文芸批評家」はいなかった。小林秀雄以前の文芸批評家と言えば、作家や詩人になれなかった、いわゆる文芸批評家にしかなれなかった人種か、作家や詩人が本業で、片手間に、副業として、文芸批評家を名乗っているような、文芸批評家という存在に「誇り」と「意義」を感じている人はいあなかった。小林秀雄に至って、初めて、文芸批評家という職業と役割が、時代の脚光を浴び、文芸批評家という人種が、一役、文壇の主流に躍り出たと言っていい。そういう小林秀雄から見れば、小林秀雄以前の文芸批評家たちは、文芸作品の解説や善し悪し、あるいは文学史的評価などを論じる「裏仕事」でしかなかった。小林秀雄は、そこを徹底的に批判する。今でも、高見から 、新しい外国製の新理論をふりかざして、文壇や文芸家たちを侮蔑的に眺め、罵倒している文芸批評家もどきの外国文学研究者は、後を絶たないが、小林秀雄は、そういう呑気・気楽な外国文学研究者たちを含めて、激しく批判する。
批判の武器は、彼等が身にまとっている『様々なる意匠』である。小林秀雄の言う「意匠」とは、私なりに言い換えると、知識や理論や教養・・・のことである。つまりイデオロギーのことである。次の言葉は辛辣である。

《私には常に舞台より楽屋の方が面白い。 》

理論やイデオロギーの中身・内容が面白いのではない。理論やイデオロギーを、身に纏っているその姿が、哀れで、面白いというわけだ。「文芸批評家等が、騒然と行動する必要のために見ぬ振りをした種々な事実」とは、そのことである。だから、《私には常に舞台より楽屋の方が面白い。 ということになるのである。